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2009年5月25日 (月)

徳川19世紀の二つのボーダーレス化(Two Borderlessness in 19C Japan, or Class action in Tokugawa Japan)

■徳川FBI(FBI in Tokugawa Japan)

 関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)、通称「八州廻り」。文化2年(1805)、悪化する関東地方の治安回復のため、関東代官の手付、手代から選抜され、勘定奉行に直属した治安警察組織が、この関東取締出役である。

 19世紀初頭、関東の地回り経済が発展し、それにともない、百姓身分の人々にも様々な流動化が起こる。天明の大飢饉後、農村部に土地や富を集積する豪農層が成長してくるとともに、土地を持たない水呑み、日雇、出稼といった、農業以外の業に携わったり、専ら雇用されないと生きていけない階層(=労働力商品)が出現する。そのなかで、いわゆる無宿、渡世人として当時の身分法体系の外にいる庶民たちが多く出、その中から犯罪や非合法な活動をし、徒党を組む者たちも現われた。

 その一方で、関東には、公儀直轄領、大名領、旗本領、寺社領、それらの飛び地、などが複雑に錯綜していたため、統一的で有効な警察権を実施できず、また、旗本領、寺社領など、そもそも独自の治安・警察力を持ち合わせていなかった。そこで、19世紀劈頭に創出されたのがこの「八州廻り」で、彼らは御料(公儀直轄領)、大名領の区別無く廻村し、犯罪捜査・逮捕、百姓一揆などの情報収集・探索などに携わった。

 そして、文政10年(1827)の文政改革において、この関東取締出役の活動をより効果的にするため、領主に関係なく隣接する3から5村で小組合を編成、小組合10前後(40-50ヶ村)で大組合を編成し、これを大組合取締組合の一単位とした。また組合レベルに対応して、村役人から小惣代、大惣代をそれぞれ選任し、組合村役人として運営を担当させた。この取締組合の中で、交通の要衝の村を組合村寄場とし、その村の名主を寄場役人として取締組合の総責任者とした。

 江川太郎左衛門英龍(1801‐55)は伊豆韮山の代官として幕末に活躍した人物であるが、韮山代官の支配地域にも当然無宿、博徒はおり、彼も嘉永年間、洋式訓練を施し、自ら開発・鋳造した洋式鉄砲ドントル砲で火器装備した部隊を率いて、博徒同士の争闘鎮圧に出動した記録が残っている。これなどは差し詰め、徳川アンタッチャブルといったところか。

■江戸のクラスアクション(Class Actions in Tokugawa Japan)

 その一方で、徳川19世紀前半は、「国訴(こくそ)」と呼ばれる、巨大な集団訴訟が頻発した。特に有名なのは、「文政六年一千七ヶ村国訴」(1823年)と呼ばれるものである。摂津国、河内国二カ国、合わせて1007ヶ村の村々を代表し、50名の惣代が支配領主の異同を超えて、そろって大坂町奉行所に、村方による、実綿(みわた)・繰綿(くりわた)の販売自由を訴え出たケースである。訴えられたのは、公儀認可の「大坂三所綿問屋(おおさかさんしょわたどいや)」で、18世紀後半から19世紀にかけて国内市場が急拡大した木綿をめぐる特権商人と生産者百姓の利害対立に起因するものであった。この訴訟の結末は、百姓側勝利となっている。また、 翌年には和泉国をあわせた三ヶ国1307ヶ村から菜種・油の訴願も続けて出されている(このケースは不首尾)。これは巨大な集団訴訟の場合であるが、河内国の10ヶ村を支配するある領主のもとには、村方から一ヵ月半に146件の訴願が出されている例がある。

 これらのケースで重要なのは、第一に、「惣代(そうだい)」と呼ばれる地域代表を、「頼み証文」という委任状つきで選任する仕組みが、その訴訟に関わる費用負担の各村へのシェアリングも含めて、自生的に組織化されていること、そして第二に、大小取り混ぜた数ある訴訟運動が合法的に行われていたということである。これらの民の力量の増大を評して、日本における「市民階級」の起源(朝尾直弘)、近代代議制の在地における底流(井上勝生)とする論者もいる。

※参照 江戸のクラスアクション(Class Actions in Tokugawa Japan)(2): 本に溺れたい

■小括

 関西に「文政六年一千七ヶ村国訴」のあった四年後に、関東で公儀の手により、行政単位としての組合村作りが始まっている。前者はボランタリーであり、後者は「官製」ではあるが、ともに、旧来の分権的統治単位では解決できない広域的な問題の解決が目指されている。「惣代」という名称の共通性からして、関東においても、関西と同様な機運はあった可能性は高い。つまり、関東における公儀による組合村づくりも、地下(じげ)の人々の先行した動きの上に乗ったものと推測できよう。

 19世紀徳川は好むと好まざるとに関係なく、内発的なボーダーレス化が着実に進行しつつあったのだと考えざるを得ないだろう。

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