資本主義文明を再考する / Rethinking capitalist civilization
私があれこれ徳川期のことを書きたいと考える第一の理由は、それが我々の現に生活するこの列島の、いまだ全面的に資本主義化されていない時代であるからだ。
たかだか四世代、150年ほど遡ることで、眼前の資本主義と異なる生活様式、心性、国制のもとで、我々のご先祖がまさにこの列島の上で呼吸をしていた、という事実が、現代の我々の生活総体を再考するときの参照枠になるに違いないと思うからである。言い換えれば、我々が信じて疑わない「現実(リアリティ)」とは異なる、別の「現実(リアリティ)」の下で暮らしていた人々が、他所(よそ)ではない「ここ」にいたということを知ることが、我々を生(なま)の思考の金縛りから解き放つ効果があると思うからである。
さて、そこで、である。今や我々の「世界」が、20世紀の経験と異なる道を辿り出しているかも知れないと仮定するならば、一旦は、それを総体として把握するように努めることが必要だろう。そこで、人間の物的、心的生活様式全体を「文明」と呼ぶなら、文明的考察を一度はしなければならないわけだ。
ならば、今の我々が頭のてっぺんまで浸かっている文明を、何と呼べばよいのか。差し当たり私にも妙案はない。仕方ないのでとりあえず、「資本主義文明」という言葉で括っておこう。すると、「資本主義文明」って一体なんだ、ということになる。ここで、まず最初に思い浮かぶ論者は、私にとりマックス・ウェーバーとカール・ポランニーの二人である。彼らの言を引いてみよう。
1.「たしかに、歴史の凡ての時期において種々の形態を有する資本主義が出現した。この事実は否定しがたい。しかし日常需要が資本主義的な仕方で充足されるという事実は、ただ西洋にのみ特有であり、しかも西洋においてもようやく十九世紀の後半以来の出来事である。」マックス・ウェーバー『一般社会経済史要論(下巻)』岩波書店(1955)
、p.120
2.「決定的なのは次の点である。すなわち、労働、土地、貨幣は産業の基本的な要因であること。しかも、これらの要因もまた市場に組みこまれなければならないことである。事実、これらの市場は経済システムの絶対的に重要な部分を形成する。ところが、労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明白である。売買されるものはすべて販売のために生産されたものでなければならないという公準は、これら三つの要因については絶対に妥当しないのである。つまり、商品の経験的定義によれば、これらは商品ではないのである。第一に、労働は、生活それ自体に伴う人間活動の別名であり、その性質上、販売のために生産されるものではなく、まったく別の理由のために作り出されるものである。また、その人間活動も、それを生活のその他の部分から切り離して、それだけを貯えたり、流動させたりすることはできないものである。つぎに、土地は自然の別名でしかなく、人間によって生産されるものではない。最後に、現実の貨幣は購買力を示す代用物にすぎない。原則としてそれは生産されるものではなくて、金融または国家財政のメカニズムをとおして出てくるものなのである。労働、土地、貨幣はいずれも販売のために生産されるのではなく、これらを商品視するのはまったくの擬制(fiction)なのである。」
カール・ポランニー『経済の文明史』日本経済新聞社(1975)、第一章(pp.28-29)
上記二つの条件をまとめるこういうことになる。資本主義文明とは、生産要素である、労働、土地、貨幣が商品化されており(=貨幣支出によって市場から購入可能)、それらの組み合わせによる生産組織において、全面的に日常消費財(食料・衣類・雑貨等)が製造販売され、人々もそれらを自分で作るのではなく、商品として購入しないことには生活できない状態、ということになる。
ただし、ここで考察が不十分なのは、国民経済+貿易の側面だろう。特に、現代では、日常の消費物資までもが輸入品であることがしばしばだからであるし、労働や貨幣が「輸入」される場合もあるからだ。
カール・ポランニーは、上記、生産の三要素を社会に埋め戻す(re-embed)ことを述べてるが、過去記事でも触れた、Basicincome(基礎所得保障)などはさしずめ、労働を社会に埋め戻すための方策であろうし、C.H.ダグラスの Social credit(社会信用)も、貨幣の社会への埋め戻しという位置づけになろうか。
こういった視点からも、徳川日本を考察する必要があると思うが、さて、どうしたものか。私自身、再考を要する課題である。
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コメント
わどさん、どうも。別にあやまられる必要はありません。私もあいまいな記憶で書いて訂正することもまま、ありますから。
>それを担保に金の貸し借りもあったらしい
それで納得しました。大坂の堂島では、各藩が振り出す米切手を売買することを通じて、自然発生的に先物市場が形成された、という前例もあります。お話のような担保権の実行で売り買いされる相対のマーケットは考えられますね。
私が以前から気にしていて、よくわからないのは、寺社の金融活動です。もし、小耳に挟まれることがあれば私にも教えて下さい。
投稿: renqing | 2009年5月 7日 (木) 06時12分
いらないことを書いちゃったものだと、ご返事に困っていました。「株」は、renqingさんがおっしゃるようなものだと思いますが、それを担保に金の貸し借りもあったらしいというだけのことです。文献など皆無で、歴史小説からのパクリにすぎません。申し訳ありませんでした。
投稿: わど | 2009年5月 7日 (木) 05時12分
わどさん、どうも。
>すでに札差など、各お店(たな)の「株」を扱っていたなどの話も聞きます。もちろん現在の「株式」とは大きく違っているのでしょうが、
この件、初耳です。文献などご紹介していただければ幸甚です。私の知識で推測するに、現代でいう「株式」とは異なり、「株仲間」の「株」、つまり、公儀から特権的な参入規制を受けた業者組合の会員権、のことかも知れません。ただ、大相撲の親方株と同じなので、会員の死亡や廃業によって、空席ができたときに初めて、市場取引ではなく、相対取引でその権利が移転していくもののように理解しています。
>江戸に発達した金融業(金の貸し借り)をとおして、資本主義的な「擬制」(ボランニー)としての、金融システムの芽生え
徳川も19世紀になると、町方(まちかた)も地方(じかた)も、事実上、不動産売買がかなり広範にその自由度を増してますし、雇用労働も広がり出します。それからすると、土地、労働に関しては、その「擬制商品化」は、ズルズル亢進していると考えることも可能ですね。
とすれば、『逝きし世の面影』に見える部分は、“上部構造”であって、社会の下半身にあたる“下部構造”は、かなり“資本主義化”という病(?)に冒されていたことになります。
投稿: renqing | 2009年5月 5日 (火) 17時40分
rssリーダーに登録して、勉強させていただいてます。「資本主義」社会といわれる中に生きているはずですのに、確かに仰るように、その社会システムをわからないまま、無意識的に過ごしています。また、わかったふうな言説を探してみても、自分の欲望をなぞり、語りなおした場合が多いみたいで、信頼にたる考察じゃなさそうだと疑念を深めたりしています(例:池田信夫氏)。しかし引用に見られますように、20世紀に現われた頭脳たちの言葉なら、いまも輝いているものですね。
「日常需要が資本主義的な仕方で充足されるという事実」(ウエーバー)
「労働、土地、貨幣はいずれも販売のために生産されるのではなく、これらを商品視するのはまったくの擬制(fiction)なのである。」(ボランニー)
には、椅子から転げ落ちて平伏いたしました。こんなダイジェストに重要文献を拝読させていただいて、いいものでしょうか。といいながら、もう読んじゃいましたけど(笑)。
まだ『徳川日本の民』3部作は詳しく拝読できていませんが、すでに札差など、各お店(たな)の「株」を扱っていたなどの話も聞きます。もちろん現在の「株式」とは大きく違っているのでしょうが、案外と、江戸に発達した金融業(金の貸し借り)をとおして、資本主義的な「擬制」(ボランニー)としての、金融システムの芽生えがあったかもしれませんね。
投稿: わど | 2009年5月 5日 (火) 03時58分