列島の過去と未来の選択可能性
これから一ヶ月後に4年ぶりの総選挙がある。その結果が21世紀の列島を生きる我々に何をもたらすのかは、まだ見定めがたい。しかし、たとえその結果がいかなるものであろうと、我々が己の信じる「善き政治」を実現してくれる可能性の高い候補者に、一枚の紙片をもって託すこと、それが今を生きる我々の未来創造行為の一つであることは確かだと思う。
私はこの一年有半、徳川期から明治期前半に関する歴史書を少しずつ読んできた。それらから、民の、意外なほどの強靭な政治意思と知力を教えられた。そして思うのである。徳川公儀体制は、その列島内での平和団体構築(=自力救済の禁止による徳川の平和)のためのものであった以上、西欧主権国家という未知との遭遇に関しては、歴史からの退場を余儀なくされざるを得なかったのだと。しかし、その一方で、現にある列島史の一齣としての明治期は、その時、幾つかあったかもしれない歴史シナリオの中で実現した one of them に過ぎないのだと。つまり、今ある我々の「近現代」も、幾つかあった可能性の中の一つであると理解することは可能なのだと。
では、はたして我々が別の世界を作り出すことは可能なのだろうか。これには是と答えよう。なにしろ、過去に生起した事柄には指一本触れることはできないが、我々が未来に向けてなにかを選択するということそのものが、新たな過去を作り出していることに他ならないからである。
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コメント
「歴史は夜つくられる History is made at night」という古い映画がありました。これを真似すれば、「歴史は日々作られる History is made every day」でしょう。そう考えるなら、「歴史の必然性」なるものは妄言に過ぎませんし、歴史の流れの中の、自己の小ささ故に無力感に陥るのも妥当ではない。天下のことであるなら、たとえ匹夫でさえも、それを構成している者である以上、道義的には無関係とは言えない(顧炎武)のです。
投稿: renqing | 2009年7月30日 (木) 08時39分
かっこいいなぁ・・・
揶揄で無く、まじめに。私も、頑張ろうと思う。
投稿: | 2009年7月29日 (水) 22時18分