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2009年7月 2日 (木)

江戸のクラスアクション(集団訴訟)(2)

 先日の記事、徳川19世紀の二つのボーダーレス化において、「文政六年一千七ヶ村国訴」について触れた。同時期の別の事例を知ったので、江戸がいかに訴訟社会であったかを知る手がかりとして紹介しておこう。

①1778(安永7)年、甲府町方大工は、冥加金を出さない在方大工(つまり村在住の大工)が、安い賃金で府内の大工仕事を請負うため渡世に困るので、在方大工の府中入り込みを禁止してほしいと甲府勤番に訴えた。

②1779(安永8)年、在方総代の下山定右衛門以下三人が、町方に①の対抗訴訟を起こす
→ 在方勝訴。

③1823(文政6)年、甲府町方大工は、賃金に関する宝暦通達(1751-63年、府内においては、他国・在方の大工は所定の賃金を守ること)が遵守されず、乱れてきたと甲府勤番に訴えた。
→甲府勤番は、これを聞き入れ、他国および在方大工は今後府内で職分するときは、府内役引大工に届けて雇われるように、などという申し触れを行った。しかし、在方大工は、この触書が出ると、下山大工308名を中核として、河内大工1514名がまとまり、甲府大工と争った。

④同年、下山村の重左衛門と若右衛門は、③触書撤廃を、市川代官所を通じて甲府勤番に訴える。
→訴え却下

⑤1824(文政7)年、在方大工より、③撤廃を求め、再び甲府勤番に訴えた。
→訴え却下

⑥同年、在方大工は、重左衛門と樋田村の仲右衛門を、巨摩・八代の909名の総代として江戸に送り込み、幕府へ②が数百年も続いている権利であることの確認を勘定奉行へ出訴。
→ 1826(文政9)年、和解。内容「無宿大工は除き、三郡大工、町方大工ともども入り交じり相稼ぎ、むつまじく渡世すること」。結果として、それまで身分的には正式に職人として認められなかった村に住む大工も職人稼ぎが公認されたことを意味した。

 上の事例は、先の記事と全く同時期に、列島各地(畿内と関東)で、何百名という人々を巻き込む集団訴訟が起きていることを我々に教える。すると、徳川19世紀は、列島経済の発達と比例して、訴訟事もその件数、規模を巨大化させていたと、推論することは無理ではなかろう。

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