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2009年10月12日 (月)

殿様は「標準語」しか話せない?

(20091013 参照文献・リンク追記)

 この記事に副題を付けるとすれば「参勤交代の社会学的効果」となるかな。では試みよう。

■大名ファミリーの社会学的特長
 徳川期、各大名家はその妻子の江戸定府を義務付けられていた。したがって、徳川期を通じて平均して二百数十あった大名のファミリーは、参勤交代が定着して後、約200年間、常に江戸に在府していたことになる。つまり、殿様たちは全員例外なく、都会人の武家宮廷貴族なわけである。そのため、おそらく例え盛岡南部氏でも、薩摩・島津斉彬、久光兄弟でも、日常語は江戸標準語(?)であり、おそらく臣下の話す領地の方言(盛岡弁や薩摩弁)は解せても話せなかったろう。場合によっては家臣との間に通訳が必要なケースもあったかもしれない。とにかく、武家貴族たちが全員、大都市の文化の息吹を吸って成長し、それらを内面化していたであろうことは重要である。これは、後の「明治維新」における廃藩置県や秩禄処分に関連するというのが私の最近の仮説である。

■大名家における文化ギャップ
 各大名家の家臣たちには、身分とは別に、大きく分けて二つのカテゴリーがあった。「定府じょうふ」と「勤番きんばん」である。前者は代々の江戸生活者であり、その身分帰属が、例え本州最北端の盛岡南部家家臣だとしても、芝居好きで、吉原に馴染みのいる通人である場合もあったであろうし、九州最南端の薩摩島津家家来という肩書きでも、江戸生まれ江戸育ちの、文化的に洗練されたインテリだっていただろう、ということである。となれば、主君を同じくするといって も、定府と勤番ではメンタリティに有意な差が出るのは避け得まい。そしてその影響は、定府→勤番という形で都市文化が地方に還流する経路になっていたであろうし、逆に勤番侍の定府へに反感と言う形でもあらわれただろう。大名家内部の政争が江戸表と領地の文化人類学的差異から発生しそうなことは想像に難くない。
 福沢諭吉の『自伝』などにも、中津奥平家の大坂蔵屋敷勤めの一家が、父の死によって中津(現大分県中津市)に帰国し、周囲になじめず疎外感の悲哀をかこったことが記されているが、これなども現代の帰国子女の不適応と同質の問題とみなせる(松田宏一郎氏の指摘)。

■大名屋敷の概要
 では徳川期の外国大使館とも言える、大名屋敷にはいったいどれほどの人間が活動していたのか。一例をあげよう。まず、屋敷の様子。彦根井伊家(35万石格)の場合、18世紀中ごろで、桜田上屋敷19,685坪、赤坂中屋敷14,175坪、千駄谷別邸174,795坪、八丁堀蔵屋敷7,277坪。上屋敷の2万坪とは、坪3.3平方メートルで換算すると、約6000平方メートルで、縦横80m四方ということになる(訂正はコメント欄参照、もっと巨大)。また、別邸(いわゆる下屋敷)なら、縦横230m四方という広大な敷地となる(訂正はコメント欄参照、さらに巨大)。その活動人員は、1695年(元禄8年)のデータで、定府1458人、勤番1794人である。これが譜代筆頭の規模であるが、外様の大大名であればそれに応じて、より大規模な屋敷地、活動人員と推測される。
 天明期(1781-89)には、江戸府内に大名上屋敷265ヶ所、中・下屋敷466ヶ所あり、旗本屋敷を含めれば、府内武家地は全域の7割近くに及んでいた。
 ま、とにかく、府内二百数十箇所に平均数百人前後、規模によっては、数千人の武士が生活をしていたことになる。

■大名屋敷からの有効需要
 これらの定府、勤番侍たちは、もっぱら政治・行政・外交・軍事・儀典、等に携わるのみで、なんらの生産物、サービスも生み出さないのであるから、常時莫大な有効需要を府下にもたらしていたことになる。結局、これが江戸に非武士の50万人の雇用を生み出し、前近代において100万人の大都市を現出させていた大きな要因である。
 また、これだけの武士人口すべてに、上記のような仕事(task)があるはずもなく、冷静に考えればかなり閑のはずである。実際、武士の日記などにもそのことは伺われる。幕末の紀州徳川家の下級武士の勤番日記によると、勤務は午前10時(まれに8時)から正午まで、月平均10日ほど。つまり三日に一日しか勤務がなく、それも午前中の2、3時間だけ、ということになる。おそらく領地での勤務も似たり寄ったりだろう。これで大消費地江戸府におれば、武士が腑抜けにならないほうがおかしい。このことは、同じく幕末に来日したオランダ海軍士官カッテンダイケがその長崎海軍伝習所の日々 (東洋文庫(26)において、侍たちが閑であり、することといったら酒色ばかりと非難していることとも符合する。
 19世紀に入り武士人口にも増加傾向があったのなら、勤務がなく閑をもてあましている、特に下級の若侍たちは、もし上記のように腑抜けにならないとしたら、自己充足を求めて、何らかの活路を外に求めることになるだろう。19世紀に剣術道場や漢学塾などが江戸などの三都で隆盛を極め、また在地であっても全国的に知名度を持つ私塾咸宜園(豊後国日田、天領)などに全国から若者が集まったことの背景にも、この「武士の閑」が関係していよう。幕末に至り、下級武士がイデオロギー化しやすくなることとの相関関係も疑われる。

■大名屋敷の文化史的機能
 先にも指摘したように、大名ファミリーには、18世紀以降、都市的教養主義のトレンドが流れ込んでおり、その子どもたちには教養としての諸学を学ばせる欲求が少なからず存在した。したがって、西洋の貴族と同じで、学芸に秀でた家庭教師をつけることになる。その需要に応じたのが儒者たちである。
 徳川期の儒者を含む学者は、身分としては医者、僧や諸芸の特殊技能者などと実質的に変わらず、大名家や将軍家の正式な侍身分とは別のカテゴリーに属していた。逆から言えば、採用、任用には身分法的厳密さは求められないことになる。したがって、江戸市中で学名を上げると、比較的容易に大名諸家に抱えられることになる。だから、徳川思想史などに名が出てくる儒者などは、たとえ元来百姓身分の者であっても、一旦学者として社会に認知されると、大名家ラインの身分制の外側で、中途採用されるケースが多々あるわけである。
 ここで大事なことは、大抵の場合、そういった学者たちは江戸在府のまま任用され、大名家のファミリーの家庭教師となり、また場合によっては、屋敷内で在府の侍たちに講義した、ということである。そして彼らもラインの侍たちと同じで大抵は閑であり、上層部に申請すれば、屋敷内で私塾を開くことを許可されるケースもあった。福沢諭吉が中津奥平家家中のままで、中屋敷内に蘭学塾を開いたのが一例である。

■大名行列の社会学的効果
 参勤とは江戸に行くこと、交代とは封地に就くことをいう。この参勤交代を一年毎に繰り返したのが参勤交代だが、その移動の軍隊行進が大名行列である。
 さて、その規模はどのくらいだったのだろうか。多くの大名家では、通常150~300人前後。大大名である加賀前田家は多いときで、2500人余。これで2週間ぐらいかけて、金沢から江戸まで行進した。遠隔地の外様大名になると、国持で大大名であるから、千名単位の規模で、数週間から一ヶ月近くか。
 さて、この事象を冷静に考えてみる。小学校の遠足ではあるまいし、大の大人が場合によっては数千人規模で、陸路を一ヶ月近く行進する工程とは、とてつも ないプロジェクトだと言える。道中の宿泊の手配、様々に発生する物品需要へのロジスティック、他家領地通過にともなう外交儀礼、道中の突発的事件や事故。 排泄物処理なども考慮しなくてはならない場面もあろう。すさまじい事務作業量と臨機の果断な決断・処置が必要とされるはずだ。
 小大名から、大大名まで、二百数十家がこの作業を200年間、日本中の幹線道路で隔年でおこなっていたという史実をまともに考えると少し気が遠くなりそうだ。また、この隔年のプロジェクトが成功するためには、各宿場の多くの協力と犠牲が必要なのも言うまでもない。
 恐らく、組織的鍛錬、プロジェクト進行管理のトレーニングとしては、最高難度の事柄を、実地に隔年でエクササイズできたわけで、これによって各大名家の少なくとも担当部署は、情報処理・事務処理の能力は徹底的に鍛えられた、と考えてもよいだろう。こういう民族的経験が、後の「近代化」に目立たぬとしても 「役に立った」面も大いにあると考えてよいと思う。

〔参照〕平凡社世界大百科事典、「参勤交代」「藩」「大名屋敷」「大名行列」の各項。
青木直己『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(生活人新書)、日本放送出版協会 (2005/12)

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コメント

百姓長吉 さん

ご指摘ありがとうございます。
確かに、その通りです。
20000坪×3.3平方m=66000平方m
257m×257m=66049平方m

千駄谷別邸はさらに巨大に成りますね。
174,795坪×3.3平方m=576823平方m
759m×759m=576081平方m

この規模なら、確かに新宿御苑(信州高遠内藤家の下屋敷58万平方m)がすっぽり入る訳ですね。

感謝です。m(__)m

投稿: renqing | 2009年11月 8日 (日) 03時43分

引用開始
屋敷の2万坪とは、坪3.3平方メートルで換算すると、約6000平方メートルで、縦横80m四方ということになる
引用終了
換算に誤りがあります、2万坪は66000平方メートルとなり、縦横約250メートル四方となります。縦横80mでは角栄さんの目白御殿より小さく、譜代筆頭の上屋敷としてはスケールが小さすぎますな。

投稿: 百姓長吉 | 2009年11月 7日 (土) 13時09分

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