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2009年11月11日 (水)

識字化・革命・出産率低下(2)

 徳川期と明治初期の人口の動きをざっとグラフにすると下記のようになる。

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 これを見て気付くこと。
①徳川前半の17世紀後半に人口が倍増している。
②18世紀に入るとプラトー(高原状態)に入る。
③18世紀後半から19世紀の世紀の変わり目あたりで、再び増加に転じている。
④19世紀前半にはなだらかな増加局面が続いていること。

 特に顕著なのは、①の点だろう。この局面は、急激な人口増加なので、列島人口の年齢構造は、きれいなピラミッド型をしているはずで、若年人口が多いことになる。

 すると、「明治維新」を現出させたユース・バルジ(Youth Bulge)」で既に紹介したG.ハインゾーンのユース・バルジの議論からすると、親の後を襲う息子たちの間での「求めるポストの数」に対して「実際に就けるポストの数」は圧倒的に不足し、その年齢人口集団内に強烈なサバイバル圧力がかかることになる。G.ハインゾーンは西欧の大航海時代の冒険主義的・略奪海外貿易をこれで説明している。これに相当するものを徳川期に求めるなら、元禄期の紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門のように、冒険主義・投機的商業、や政商らが一代で巨富を築いたことだろう。大航海にあたるのは、河村瑞賢などによって列島の沿岸航路が開発されたことなどが思い当たる。無論、17世紀後半の「列島改造」とも言うべき乱開発を支えたのは、このユース・バルジであると考えられる。1666(寛文六)年と1684(貞享元)年の二度にわたり、公儀老中から「諸国山川掟しょこくさんせんおきて」なる開発規制法令が出されていることが、その開発ぶりを裏面から示してくれる。

 ただし、西欧における若年人口圧力は、その後も続き、初期近代から近代にかけての西欧の海外膨張主義や王侯国家間の角逐を支えていたが、列島史では、17世紀から18世紀にかけて列島の環境容量の天井が見え出すと、人口調整が始まり、さきほどのプラトーが観察される。

 ところで、「識字化・革命・出産率低下(1)」でのE.トッドの議論によれば、人口増→男性識字率上昇→社会的葛藤増大→女性識字率上昇→近代的人口転換過程開始、というシナリオのはずだ。しかし1700年前後の元禄文化では確かに列島の文化史の画期をなす文芸上の巨人たち、芭蕉、西鶴、近松、が現われ、出版も盛んにはなったが、まだ女性識字率を本格的に引き上げるほどの域には達していない。したがって、徳川18世紀の人口高原状態は、出産率(=合計特殊出生率)の調整によるものではなく、速水スクールの主張するように、17世紀人口増要因であった皆婚姻革命の頭打ち(分家等によって新しい「家」を立てることが困難となる)が一つの理由として考えられよう。これもフロンティアの消失であるから、マルサス流のチェックが入った結果と言えば言えなくもないが、それにしてもよくまあソフトランディングしたものだと感心する。

 (3)へ続く(予定)。

※人口データの出典
鬼頭宏『[図説]人口で見る日本史』PHP研究所(2007)
、p.78「表4-1江戸時代の農業発展」より。ただし、1600年の数値は、p.76にある鬼頭氏推計。

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