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2009年11月14日 (土)

「会読」を巡って

 「会読」なる語をご存知だろうか。一冊の本を数人で輪読しながら、その内容や関連することにつき議論するという学習形式のことである。現在も、大学等のゼミや市民相互の自主的な勉強会などでも使われているメソッドである。

 この「会読」だが、列島の文化史においては、その起源となるものが徳川中期(18世紀)の荻生徂徠及びけい園学派に始まることは、ほとんど知られていないだろう。この事柄に注目し考察しているのが下記、特に第1編1、2章である。

前田勉『江戸後期の思想空間』 ぺりかん社(2009年)

 徳川中期に活動した荻生徂徠およびその学統は、18世紀徳川の知性史を塗り替えた。徂徠学革命と称してもよい。現に21世紀の今日にもその影響を及ぼしている。現代日本人の常識とも言える、漢詩=「唐詩選」という図式は、徂徠の高弟、服部南郭によって、享保9年(1724)に校訂出版された「唐詩選」が徳川期のロングセラーとなったことが直接の原因であることなどは、その顕著な一例である。その一方で、現代中国人に唐詩と問えば「唐詩三百首」(1763年[乾隆28]、孫洙編)と返ってくるのだ。日中のこの常識のズレが歴史的に形成されたものであることは明瞭だろう。

 そして、その徂徠学革命は、当然、学問論、学問方法論にまでおよび、その一つが学習・研究形態としての「会読」なのである。これまた、現代にも連綿とつながっている。顕著な一例ならば、京大人文研が挙げられよう。これは「原典会読と共同研究(京大人文研)」(p.182-184を参照)なる文書をご覧になれば諒解されはずだ。

 この文書中に、

ここでいう会読とは複数の専門家による高い水準の共同研究にほかならず、その過程において論文や研究報告がものされ、会読の結果、校訂と訳注が生まれ、場合によって索引が作られる。現在の東方学研究部の共同研究班の多くは、こうした原典会読方式のうえにたち、自由討論を加えるスタイルをとっている。

なる文言がある。これなどは、まさに徳川中期の徂徠スクール(けい園学派)内の会読から、種々の校定本や編纂本が生まれたことと軌を一にしていると言ってもよかろう。

 試みに、小学館日本国語大辞典で「会読」を引くと、伊藤東涯の随筆「秉燭譚へいしょくだん」(1729)中の、

予弱齢の時、諸友と八大家文鈔を会読す

という用例を見つけることができる。つまり古義学派においても、普及していたメソッドだったと想像がつく。

 こうして「会読」は、18世紀中には学派や学を超えて、普及定着を見るに至る。これは前田氏の記述にもあるように、国学の本居宣長においてもそうであるし、蘭学興隆の起爆剤となった「解体新書」の訳出が可能となったのも会読メソッドに負う。この流れの中で、大坂の頼春水を中心とした尾藤二洲、古賀精里等の若き朱子学者たちの小さなグループの、会読を中心とした活動があり、後の寛政異学の禁を通じて、公儀の学問所にも正式にカリキュラムの一つとして組み込まれることで、一気に諸大名家の教育機関に導入され、明確に徳川期学知の有力なテクノロジーとして列島各地に広まる。塙保己一の創立による和学講談所などにもカリキュラムとして導入されていることをみても、学知一般の共通メソッドとしての地位が知れる。

 著者の前田氏は、19世紀の徳川後期において、全国の学問所や藩校、私塾などで採用されていた「会読」が、地域・身分を超え、いろいろな形で噴出する「処士横議」、「言路洞開」などの新しい言論を作るのに与って力があったと指摘する。そして、この会読が、明治初期の自由権運動内における自主的学習サークルにも同じものが受け継がれていることに及ぶ。

 徳川後期になり、尊王攘夷運動のように、あれほど思想が「運動化」したのには、この「会読」の媒介があったことは大いに首肯できる。つまり、いわゆる幕末の「公議輿論」形成に力があったと考えられる。

 これに付け加えるならば、徳川後期の爆発的庶民教育の普及による識字化社会の到来で、公儀はより世論を意識した「世論政治」(平川新)を行わざるを得なくなっていたこと。かつ、独自の情報収集経路を形成した在地の豪農商層レベルには世論形成(宮地正人)の力があり、そしてこの階層とほぼ重なる人々が、寺子屋の師匠であり、村医を兼ね、俳句の宗匠として在村文化を代表し支え、私設図書館までも作ったりしていた。

 それら二点を考え合わせると、幕末の「公議輿論」形成には、武士層における「公論」形成の契機と、庶民層における「世論」形成の契機の二つがあり、その相互の影響下で徳川公儀体制の歴史からの退場と国民国家にふさわしい新たな権力の登場の「公議輿論」が作られていったと考えることが可能だろう。ただそれが真っ直ぐ、史実上の明治維新政権に結びつく訳ではないことに注意は必要だ。

※ご参照 徂徠、カーライル、そしてニーチェ/ Ogyu Sorai, Carlyle, & Nietzsche: 本に溺れたい

前田勉『江戸後期の思想空間』 ぺりかん社(2009年)

〔目次〕
はじめに
第一編 思想空間の成立
 第一章 近世日本の公共空間―「会読」の場に着目して―
   1 学習方法としての会読
   2 会読の起源と流行
   3 会読の原理的問題
   4 正学派朱子学の会読
   5 昌平黌と藩校の会読
   6 会読における「理」の読み替え
 第二章 討論によるコミュニケーションの可能性
   1 会読の四つの問題
   2 対等な人間関係の場としての会読
   3 寛容の徳を育成する場としての会読
   4 自由民権期学習結社の会読
 第三章 蘭学者の国際社会イメージ―世界地理書を中心に―
   1 世界地理書の課題
   2 新井白石『采覧異言』
   3 山村才助『訂正増訳 采覧異言』とその影響
   4 青地林宗『輿地誌略』と渡辺崋山
   5 箕作省吾『坤輿図識』とその後
 第四章 国学者の西洋認識
   1 蘭学者の翻訳世界地理書と国学
   2 『訂正増訳 采覧異言』と佐藤信淵『西洋列国史略』
   3 「共和政治」の波紋
   4 国学者の拒否した観念
 第五章 近世日本の封建・郡県論のふたつの論点―日本歴史と世界地理の認識―
   1 封建・郡県論の課題
   2 日本歴史の二分法
   3 日本歴史の三分法
   4 蘭学者の世界地理像
   5 明治維新の復古郡県論
第二編 国学と儒学の交錯
 第一章 近世日本の神話解釈―孤独な知識人の夢―
   1 「端原氏城下絵図」
   2 「神代」と「人事」
   3 垂加神道と宣長
   4 不条理な現実と禍津日神
 第二章 山片蟠桃の「我日本」意識―神道・国学批判をめぐって―
   1 「日本」への帰属意識
   2 儒家神道批判
   3 鬼神と「智術」
   4 本居宣長との対比
 第三章 蘭学系知識人の「日本人」意識―司馬江漢と本多利明を中心に―
   1 江漢と利明の「日本」への帰属意識
   2 江漢と利明の「志」
   3 江漢の「予一人」の自覚
   4 利明の日本歴史像
 第四章 只野真葛の思想
   1 「日本」への帰属意識
   2 真葛の思想形成
   3 真葛の志
   4 真葛の独創性
   5 「小虫」意識
 第五章 渡辺崋山の「志」と西洋認識の特質
   1 蛮社の獄と古賀侗庵
   2 画業と藩政
   3 「天下」意識
   4 初稿・再稿『西洋事情書』と『外国事情書』
   5 政体論の登場
   6 政治と宗教の分離
   7 「万事議論」観
   8 古賀侗庵との「議論」観の差異
 第六章 佐久間象山におけるナショナリズムの論理
   1 「皇国」のための「東洋道徳」と「西洋芸術」
   2 「一国に繋る」第一期
   3 「天下に繋る」第二期
   4 「五世界に繋る」第三期
   5 ナショナリズムの論理の特質
 第七章 水戸学の「国体」論
   1 天皇権威の浮上
   2 水戸学の危機意識
   3 不条理な現実と系譜のプライド
   4 「国体」の幻想
 第八章 伴林光平における神道と歌道
   1 心情的急進主義
   2 歌道論
   3 「神事」としての詠歌
   4 古道論
   5 光平の「大和魂」
 第九章 南里有隣『神理十要』におけるキリスト教の影響―『天道溯原』との関連―
   1 『天道溯原』受容の問題
   2 「首倫」としての神人関係
   3 創造主・主宰神・唯一神
   4 人間の罪
   5 救済法としての解除と悔改
   6 中村敬宇の『天道溯原』受容との比較
 第十章 津田真道の初期思想
   1 津田の初期思想の課題
   2 津田の焦燥感
   3 心情的急進論の克服
   4 『性理論』
   5 『天外独語』
   6 明治以後との関連
あとがき
初出一覧
索引

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コメント

賈雨村さん、ごめんなさい。

前回の私のコメントに、誤りと事実誤認がありました。

①まず、誤り。

ご紹介して戴いた論文中で、

(江村北海や本居宣長が会読の非有益性を論じている。)
pdf 3/9 page

とありますね。その前段で、

たとえば、賀茂真淵や村田春海もまた、『古事記』や『万葉集』の会読
を行っていたのである。

と書かれていました。ここは、本居の師である賀茂真淵とその一門(県居門)
では会読を行っていたということで、本居のことには触れていませんでした。
平にご容赦。第2章に、本居の会読評価に類する記述があったかどうかですが、
ちと心もとない。原文確認の要あり、です。

②事実誤認
加藤千蔭や村田春海を鈴屋一門と書いてしまいましたが、これは間違い。
彼らはともに賀茂真淵の県居門でした。現に、平凡社世界大百科事典の平野仁啓の
記述においても、「師である賀茂真淵」とあります。重ねてご容赦。そのすぐ下
に、
「稿が成るごとに本居宣長の閲を請い,その説をとりいれることも少なくない。」
とあり、それで鈴屋一門と思いこんでしまいました。

 ただ、今回のミスを見直す過程で、一つ収穫がありました。本居宣長と県居門
としての同門の村田春海は、本居と交友はしたが、本居の古道説や漢学排斥には
終始批判的で本居派とは一線を画したことを知りました。徳川後期の国学の人脈
を鈴屋の学統一色とイメージするのは実態と遊離する危険性がありそうです。
思い込みを反省。

この件に懲りずに、コメント戴けますと嬉しいです。

投稿: renqing | 2009年11月15日 (日) 14時03分

賈雨村さん、コメントありがとうございます。参考文献のご紹介も助かります。

>これでは宣長は会読に否定的だとあります。

図書館に返却してしまったので、今、確認できないのですが、前田氏のこの著述では、宣長の古事記研究にも、会読方式は援用されたとあったように記憶しますが。お手元に前田氏本があるようでしたら、ちょっと確認して戴けますでしょうか。

鈴屋一門での会読研究の成果の一例として、
橘千蔭(加藤千蔭)の「万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)」(1800[寛政12])30巻があります。この本に関して、平凡社世界大百科事典で、平野仁啓は、
「千蔭の家での村田春海,信夫道別,安田躬弦(みつる)との《万葉集》の会読の成果を基礎として書かれた。」
と記しています。これからすると、宣長も十分徳川知性史のストリームの中にいると言えますし、かつて丸山が指摘していたように、徂徠学の知的遺産を逆説的に引き継いでいると思われます。

投稿: renqing | 2009年11月15日 (日) 04時36分

会読に注目したこれ等の論文は本当に面白い視点だと思います。私も大変楽しんで読みました。
第一章の論文はこちらでも読めます。
CiNii -  近世日本の公共空間の成立 : 「会読」の場に着目して(人文科学編) http://ci.nii.ac.jp/naid/110005001481

ところでこれでは宣長は会読に否定的だとあります。宣長の徂徠学派への批判的態度から十分ありうる話だとは思いますが、鈴屋での学習風景がどのようなもであるのかは気になります。

投稿: 賈雨村 | 2009年11月14日 (土) 14時11分

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