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2009年11月30日 (月)

ひとつの徳川国家思想史(3)

■闇斎 vs. 素行

 尾藤は、尊王攘夷思想の特質を、広い意味での国家本位の主張ないしそれを支える意識にあるとみて、その源流を寛文・延宝年間(1661-1680)に求める。何故なら、この時期に山崎闇斎(1618-1682)と山鹿素行(1622-1680)に代表されるような、新しい思想的潮流が登場しているからである。

1)両者の共通点、対外観に関して
 ①当時の清朝中国を、中国、中夏、中華、などと呼ぶことには反対。
  → 対外的自尊の主張を明確にしたこと。
 ②日本固有の伝統としての天皇尊崇という事実に重要な思想上の意味を与えている点。

 ① → 後年の「攘夷」へ。
 ② → 後年の「尊王」へ。  ⇒ 国家意識の表明

*浅見絅斎(1652-1711、闇斎学派)の『靖献遺言講義』(元禄2年・1689)より
 国際的な平等意識
 国家の独立意識
 自国と他国の関係を、「主」「客」の相対的な関係とみなす
  → したがって、日本を中国と呼ぶことにも反対。「吾国」「異国」で十分。

《注意》
  闇斎の有名なエピソードとして、「もし唐から孔子を大将とし、孟子を副将として来攻した場合にはどうしたらよいか」と弟子たちに問い、自ら「そうであれば、武器を取り迎え撃って、孔孟を捕虜にし、国恩の報いるのだ。それが孔孟の道でもある。」と答えたというものが『先哲叢談』(文化13年・1816、平凡社東洋文庫にあり)を典拠にして巷間広まっている。しかし、これは正確ではない。正確には、上記、絅斎の『靖献遺言講義』にある、「唐から日本に服属を求めて戦をしかけてくるなら、たとえ堯舜文武が大将であっても、大砲でやっつけるのが大義である。礼儀徳化によって服従させようとしたとしても臣下とならないことは当然だ。それが春秋の道であり、吾が天下の道である。」がこの逸話のソースである。このことが尾藤論文に記されている。
『先哲叢談』は極めて便利な書なので、しばしば参照されるが、この書そのものが、19世紀初期に成ったものであり、当時の教育ブームを背景にした読者マーケットを前提に、「エピソードで語る儒学入門」として出版され江湖に迎えられたことは心にとどめておいたほうがよいだろう。

2)両者の相違点、対外観に関して
◆山崎闇斎
 国家の自主性と個人の自主性が一体化して考えられており、主体性(個人の心のあり方)という観点から国家意識をとらえる。← 国際的平等観に立脚。だから「中国」の尊称はおかしい。
◆山鹿素行
 中朝(=日本)は、異朝(=中国)より、客観的に優れている。政治体制の安定性。皇統の一系。軍事的優越性。→ 主として政治的・軍事的側面から客観的に比較評価。だから「中国」の尊称はおかしい。

3)新しい国家意識(対外観)出現のタイミング
 闇斎的にしろ、素行にしろ、17世紀後半に、同期的に勃興した理由。
 ①大陸における明から清への王朝交代があったこと(華夷変態)。
 ②公儀体制がようやく固まり出したこと。
 ※『葉隠』も同時期

4)両者の尊王思想の異同
◆山崎闇斎学派
「忠誠」を基本とし、その「忠誠」を担う主体としての個人に着目。
「忠誠」の徳を顕現している個人なら、吾国・異国は無差別(『靖献遺言』は中国の歴史上の人物の事跡のみ。)   
 → 普遍主義

◆山鹿素行派
独自の君本主義に基づき、君主として天下を治平する政治の道。「勤王」の担い手は武家政権の代表者。
 → 天皇から武家へ、実質的に易姓革命が起きている。
 → 天皇の無力化 + 将軍の実質的君主化
 → 政治的効果としての、将軍による勤王の必要性 〔荻生徂徠へ影響の有無〕

 次回へ続く。

尾藤正英「尊王攘夷思想」、岩波講座日本歴史13、近世5(1977)所収

内容目次
一 問題の所在
ニ 尊王攘夷思想の源流
 1 中国思想との関係
 2 前期における二つの類型

三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向
四 尊王論による幕府批判と幕府の対応
五 尊王攘夷思想の成立と展開

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