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2009年12月14日 (月)

ひとつの徳川国家思想史(6)

「三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向」

■社会的背景① 軍記物語『太平記』*の普及

「右にみた二つの思想的動向は、学者の世界だけのできごとではなく、社会的拡がりをもった風潮であった。その具体例の第一として、軍記物語『太平記』の普及にともない、南朝の忠臣楠正成を景慕し礼讃する風潮が広まったことが挙げられる。」尾藤論文、p.62

・楠正成像作成とその画賛
  → 亡命明儒 朱舜水(1659年)による画賛=加賀前田家ほか、ほか三篇
  → 公儀儒官 林鵞峯による画賛=十八編
・楠正成の石碑建立
  → 1692年(元禄5)、徳川光圀による湊川の石碑「嗚呼忠臣楠氏之墓」

「・・、ただこの場合には、前田綱紀や徳川光圀のような為政者の側から、とくに積極的な顕彰の動きが見られる点が注目される。その意味では、この時期に現われた忠誠の道徳の自覚は、体制の性格に基づき自然発生的であったという一面とともに、支配者の側から作為的に強調されたという一面をもともなっていたこ とが、見逃されてはならない。」尾藤論文、p.63

*renqingコメント
 徳川期における『太平記』ないし「太平記読み」の問題は、かなり重要だが、ここでは詳論しない。そのかわり、参考文献を挙げておこう。

兵藤裕己『太平記<読み>の可能性』講談社学術文庫2005年
若尾政希『「太平記読み」の時代』平凡社1999年

■社会的背景② 朝廷と幕府、その関係論

「第二に、客観的な意味での社会のあり方についていえば、朝廷と幕府との関係あり方、ないしそれについて一般社会意識が、徐々に変化しつつあったという事実が、闇斎・絅斎や素行の思想が成立する背景としてあったと考えられる。」尾藤論文、p.63

・将軍綱吉の事跡
 →大嘗祭の復活許可(1687、東山天皇)
 →天皇陵の保護(1697)
  →皇室領の加増(1705、二万石から三万石へ)
 →勅使への応接態度の丁重厳粛化

・その背景要素
 ←幕府制度の整備にともなう儀礼尊重の傾向
 ←将軍・大名の夫人、側室が公家から迎えれられることの増加**
 ←官位制度が、天皇と武家との間に君臣関係を証明するもの、とされ、
  天皇を武家の君主とする意識の喚起がすすむ

**renqingコメント
 改めて、徳川将軍15代の正室を見直すと以下のようになる。
①皇室・五摂家からの正室 12名/15代
②そのうち天皇の娘(皇女)を正室としたケース 2名/12名
 参考にしたサイトによれば、これらの婚姻関係通じて、徳川家は武家最高位の家格を有し、実質的に五摂家と同格以上とみなされるに至った、とのこと。しか し、これだけ将軍正室を京から迎えていることの意味は、どう評価するにしても軽くはない。これにつき、別に再考予定としておこう。

参考サイト 徳川家の歴代将軍とその正室(御台所)


 次回へ続く。

尾藤正英「尊王攘夷思想」、岩波講座日本歴史13、近世5(1977)所収
内容目次
一 問題の所在
ニ 尊王攘夷思想の源流
 1 中国思想との関係
 2 前期における二つの類型
三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向

四 尊王論による幕府批判と幕府の対応
五 尊王攘夷思想の成立と展開

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