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2009年12月 3日 (木)

ひとつの徳川国家思想史(4)

■当ブログでの考察①

 尾藤論文のp.57にこうある。

絅斎の主張は徹底しており、ある王朝の王統が継続している限りは、これに対して謀叛を起こす者があれば、これを「賊」(逆賊)とみなすばかりではなく、その王朝の君主が正統の王位を他者に譲ったりした場合にも、その君主は「賊」であるとする。
・・・・、(後漢の献帝が‐引用者注)天下を軽々しく他人に与えたりすれば、「国家を亡ぼすの罪」を犯したことになる、と主張するのである。君主でさえも、自由に処分することを許されない「漢の天下」とは、何であろうか。それは個人の意思を超えた存在としての漢帝国、すなわち制度としての国家であり、臣下も君主もひとしく、それへの絶対の忠誠を義務づけられている。

 この感覚は、現代の我々にもそれほど違和感を持たずに理解可能だろう。しかしながら、異なる地域、時代においては、下記のようなことが当たり前だった。

ルイ十四世の后はスペインの王女であるが、結婚の時彼女(実質的にはルイ十四世)は、持参金とひきかえにスペイン王位継承権を放棄した。これはい うまでもなく、スペインがルイ十四世から自国の王位継承権を買い戻したことを意味する。このような王位、従って王国の私法的処分(売買、交換、相続等等) はめずらしいことではなく、プロイセンのフりードリッヒ大王の家訓には、自国の領土拡大の手段として、隣接諸領邦君主の私法的方法による獲得が具体的に論 じられている。
 石井紫郎『日本人の国家生活』東大出版会1986年 、p.193

 今の我々にとっても、一国を売り買いの対象にするという感覚は、俄かには納得できないものがあるが、17世紀後半という同時代に、相反する価値観 が洋の東西には存在したし、現代日本においても、「会社」を従業員付きで売り買いする企業買収などの例には共通する違和感を持たれることが多いだろう。

 また、同じく尾藤論文のpp.57-8にこうある。

逆にいえば、対象が動かしがたい制度としての国家であればこそ、忠誠が絶対的なもの となりうるのであって、対象が人としての君主であればその個人が不徳で天命を失った際には、臣下の忠誠義務も解除されて、易姓革命が生起することになるが、国家に対する忠誠の場合には、そのような忠誠の転移は容認されない。

 こうした闇斎学派の影響は、闇斎の直弟子、将軍家綱の補佐役、保科正之を通じて、同じく17世紀後半の1663年(寛文3)、公儀による殉死禁止令となって現われる。従来、この件は、保科の朱子学的教養からもたらされた人道的措置と理解されていた*が、それよりも、武士の忠誠の対象が君主個人ではな く「国家」そのものであるという、武士の「家」の一種の機関化、法人化ということの延長線上にあるものだと理解すべきだろう。

*平石直昭『日本政治思想史』放送大学教育振興会(1997)、4儒学思想の展開、pp.41-42

次回へ続く。


尾藤正英「尊王攘夷思想」、岩波講座日本歴史13、近世5(1977)所収
内容目次
一 問題の所在
ニ 尊王攘夷思想の源流
 1 中国思想との関係

 2 前期における二つの類型
三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向
四 尊王論による幕府批判と幕府の対応
五 尊王攘夷思想の成立と展開

★関連記事
1)徳川期の「天皇機関説」
2)「藩」コーポレーションの成立
3)徳川期における法人化、紀律化を巡って(1)

 次回へ続く。

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