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2010年3月15日 (月)

三島由紀夫『潮騒』(1954年)

 

三島の『潮騒』を初めて読んだのは、小学校の高学年か(小学六年生?)。

 今は亡き父が出版社に予約をしてくれた、小学館カラー版少年少女世界の文学、という全集ものの中に、日本編というのがあり、その日本5だとかいう巻に収録されていたと思う。このシリーズはカラー版と銘打つだけに、水彩画タッチの上品な絵が挿入されていた。

 当然この『潮騒』にも挿絵があった。それも嵐の日、観的哨(かんてきしょう)で焚き火をはさんで対峙している、薄衣しか纏っていない初江と新治、という場面。これには胸の鼓動がパトカーのサイレンのように高鳴った。当然、ひっそりと自分の部屋に籠もって何度も読み直し(見直し?)。

 今回、数十年ぶりに読んでみた。この本は、今でも新潮文庫で読めるが、1990年に新潮社から、没後20年企画「甦る三島由紀夫」で出た、単行本を手に入れ読むことにした。最近、文庫本の活字が少々辛くなってきた向きもあるので(歳がバレるって、・・もうバレてるか?)。水色の装丁で、行間も広く読みやすい。

 私の三島経験は、『文章読本』とこの『潮騒』にほぼ尽くされる。高校時分に『不道徳教育講座』、勤め始めてから『夏子の冒険 』を読んだ記憶もあるのだが、とんと脳裏にデータが残ってない。

 そんな私が今更、三島を褒めても正直どうかと思う。それでも、ちょっとは書いておきたいわけだ。

 読み通してみると、物語の布置結構に相当のエネルギーが割かれていることを実感する。話がうまく出来すぎていると感じないこともない。しかし、登場人物の役の割り振り、語りの進行・展開、これらがすべての物語の結末の二人の幸福にむけてスムーズの流れ込むように計算され構成されていて、今更ながら「よく出来ているなぁ」と感心する。ハッピーエンドが予測できるのに、「それでよい」と思わせる幸福感に浸ることが出来る。

 そして、何より入念に推敲されたであろう、その文の巧みさが心地よい。これには二、三の実例を引かせて戴く事をご容赦願いたい。

第一章のラスト。新治が燈台長夫妻へ、漁で捕れた鮮魚を持ってきた場面。

「平目はすでに、白い琺瑯(ほうろう)の大皿に載せられている。かすかに喘いでいるその鰓(えら)からは、血が流れ出て、白い滑らかな肌に滲(にじ)んで
いる。」

 魚がエロティックなものであることをこの文で実感。

第四章。新治と初江が偶然に観的哨で出会う場面。

「二人は森の中で出くわした動物同士のように、警戒心と好奇心とにこもごも襲われて、目を見交わして突立っているだけであった。」

第五章ラスト。何かの力に引かれ合うように口付けてしまった新治と初江が別れる場面。

「すると野の獣のように、粗い縞の仕事着の娘がそこから飛び出して、あとも見ずに、浜をいっさんにむこうへ駈けてゆくのが眺められた。」

 都会とは異なる、島と海という大自然におかれた若者と娘の精気を活写して余すところがない。

 また、各所で思わずニヤッとする章句を入れているところも、この全体として明るい基調の小説を支えている。小さな物語だが、三島の作家としての手腕が素直に発揮された青春小説の傑作といえるだろう。

*参照
三島由紀夫『潮騒』(1954年)〔承前〕
三島由紀夫『潮騒』(1954年)〔結語〕

〔補記〕 三島ファンには顰蹙ものだろうが、私の中では、戦後を代表する傑出した青春小説は以下の如し。
中学時代 → 菅生浩 『巣立つ日まで』
高校時代 → 黒井千次 『春の道標』
青年と娘  → 三島由紀夫 『潮騒』

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