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2010年3月31日 (水)

渡辺浩『日本政治思想史 ― 十七~十九世紀』東京大学出版会(2010年)(3)

(2)より

■儒者とソフィスト

「 しかし、儒者風情が統治に口を出せば、本流の武士からは反撥が出る。「儒者料簡」という語がある。儒者にありがちな、理屈は通っているようだが実行すれば有害な思いつきと言うほどの意味である。日本の儒者は、そのような視線が向けられていることを意識せざるをえなかったのである。

 このような儒者の社会的在り方は、知識人の社会的存在形態として、世界史的に珍しい。これは、多くは都市に住む、不安定で特殊な職業としての、世俗的な知識人である。官僚でも地主でもない点で、明・清の士大夫や朝鮮の両班と異なる。その存在を支える組織がない点で、欧州の大学教師とも異なる。一方、貴族の庇護の元に秘書・顧問として生きる以外に、町で塾を開き、その授業料で生きることも可能だった点で、欧州近世の知識人とも違う。」本書、p.97

「伝統主義はソフィストの生き方や知のあり方をも規定している。彼等は一種の旅芸人である。国々を巡りつつ謝礼と引き換えに言論の術を教える彼等は、かつての吟遊詩人と同様の放浪する芸人であり、両者の共通の祖先は、祭礼の日に村々を訪れ民衆のわずかな喜捨と引き換え芸を演じてみせる歌唄いや傀儡子といった大道芸人なのだ。放浪と芸と祝祭に結びついたギリシアの民衆教育はまずホメロスの叙事詩に結晶したが、ソフィストにとっても旅芸人の刻印は決定的なものであった。というのは、旅するよそ者の教師ソフィストとポリス社会の関係は、そのままソフィスト的な知と世界の間の認識論的な関係を構成しているからである。」関曠野『プラトンと資本主義』北斗出版(1996改訂新版)
、pp.98-99

「だが有料の講義をして生計を立てるということは、ソフィストにとっては倫理的選択であり、実はプラトンが攻撃する「言説の商品化」こそが彼らの主要な、輝かしい業績なのである。」関曠野『プラトンと資本主義』北斗出版(1996改訂新版)、p.99

 徳川期儒者と古代ギリシア・ソフィストの対比。やる価値はあると思う。

(4)へ続く。


渡辺浩『日本政治思想史 ― 十七~十九世紀』東京大学出版会(2010年)

読み終えた部分。
序 章 本書への招待
第一章 「中華」の政治思想――儒学
第二章 武士たちの悩み
第三章 「御威光」の構造――徳川政治体制
第四章 「家職国家」と「立身出世」
第五章 魅力的な危険思想――儒学の摂取と軋轢

第六章 隣国の正統――朱子学の体系
第七章 「愛」の逆説――伊藤仁斎(東涯)の思想
第八章 「日本国王」のために――新井白石の思想と政策
第九章 反「近代」の構想――荻生徂徠の思想
第十章 無頼と放伐――徂徠学の崩壊
第十一章 反都市のユートピア――安藤昌益の思想
第十二章 「御百姓」たちと強訴
第十三章 奇妙な「真心」――本居宣長の思想
第十四章 民ヲウカス――海保青陵の思想
第十五章 「日本」とは何か――構造と変化
第十六章 「性」の不思議
第十七章 「西洋」とは何か――構造と変化
第十八章 思想問題としての「開国」
第十九章 「瓦解」と「一新」
第二十章 「文明開化」
第二十一章 福沢諭吉の「誓願」
第二十二章 ルソーと理義――中江兆民の思想
あとがき

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