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2010年5月 4日 (火)

渡辺浩『日本政治思想史 ― 十七~十九世紀』東京大学出版会(2010年)(9)

(8)より

第十六章 「性」の不思議

■イエ統治と sexuality

 この章は、日本政治思想史のものとして極めて珍しい。徳川思想史の関連で、性 sexuality に触れるものと言えば、ジェンダー、フェミニズム研究からのアプローチがほとんど。それはそれで啓発されるのだが、大きな時代文脈からこの問題に照明をあてるものはあまり無かったように思う。また、政治思想史なる書名を持つ書物において、日本近世の武士カルチャーである「男色なんしょく」を正面から取り上げたものも皆無ではないか。「男色」といえば文化史、風俗史的なものか、もっと好事家的な取り上げ方に終始しているもの。それが謹厳(そう)な東京大学法学部教授の著作に、取り上げられた点からいっても画期的である。それは、「性(と支配)」が、改めて著者の透徹した知性によって描かれ、湿っぽい薄暗がりから、晴れて公共空間で議論できるテーマになったことを我々に教える。

 また、これまで日本の学界では(ほんとうか?)、フーコーそのものを議論することが盛んでも、フーコーがその渾身の知力で迫ろうとした問題を議論することが少なかった。ここでようやく、フーコーの固有名詞抜きで、フーコーの「modernity(modernite)再考」を、日本史の文脈で議論できるぐらいに時が熟したということなのだろう。そう言えば、本書の「御威光」の分析(第三章)は、権力のスペクタクル性(関曠野『ハムレットの方へ』1983)がそのテーマだが、それは、実力(force, Macht)と相俟って支配を有効化する、支配される側の一契機を浮き彫りにしている。その意味でもフーコー的と評してもよいだろう。

 今日、江戸風俗の関連書がかなり出回り読まれているので、こういう通念が広まっているも知れない。江戸期=徳川期の女性は、他の同時代の地域や後世の女性に比べて、相対的に自由で(=性的に寛容で)、ある意味で尊厳を持って生きることができていたのではないか、と。

 これに関して、渡辺氏はこう書いている。

このように、徳川日本では、両性の内・外への厳格な割り付け、空間的・社会的な隔離が、少なくとも明国・清国などと比べ、かなり弱かったのである。本書、p.322

 しかし著者は、史実を押さえながらも、徳川期の女性像に対する安易な臆断に警告を発する。

何故、徳川体制においては、厳しい身分道徳・イエの道徳と、男女の混在と「色」の横溢とが並存したのであろうか。「江戸の性」は意外に「おおらか」だったなどと呑気に評するわけにはいかない。「色」の横溢は、男女平等も女性の「解放」も意味しない。重苦しい道徳意識と一見それと矛盾するような「性」の在りよう(しかも、それが「身売り」等の悲惨と結合している)との関係、それこそが問題である。本書、p.324

■嫁、娘と sexuality

 著者は、徳川期の離婚率・再婚率の高さを示した上で、「妻がイエの共同経営者」であり、「夫婦関係の安定的継続は、イエ繁栄の前提」(ともに本書p.326)だと言う。そして、比較史的観点からこう述べる。

近代西欧から広まったロマンティック・ラヴに基づく結婚では、個人主義化した個人同士であるからこそ、夫婦愛が強調される。これに対し、徳川日本の結婚では、夫婦は個人主義的ではなく共にイエのために生きる存在であるからこそ、「和合」の必要が強調される。前者では、「家庭」が「労働」と分離されて純粋に私的な空間となったが故に、外では難しい親密さが希求され培養される。これに対し、後者では両者が一体で、イエが「家業」に於いて成立するものであるからこそ、睦まじさが規範として要求される。本書、p.327

 そしてイエ再生産のために女性が果たす男性と異なる最大の役割は子どもを生むことであり、嫁となった以上はそのためにも「和合」、「情けと愛敬」(p.329)は必須となる。すると嫁入り前の娘にとりそれらのプラスアルファとして、「よい縁談にありつき、夫に好かれるには、「芸」も大事だと考えられていた。」(p.332) そのため、

「男」に儒学的教養が普及していく一方で、「女」は「情け」であるという通念とそれと結合した和歌的教養*も浸透を続けたのである。本書、p.333

■男色**こそ武士らしさ

「男色」は、(僧侶以外には)とりわけ武士のものと考えられた。それは、彼等が極度の「男」らしさを誇ったからである。本書、p.334

「男色」は武士の団結と武士的マチスモからする女性蔑視の象徴であり、武士の支配を「性」の構造から象徴的に裏打ちしていたのである。本書、p.335

■「奥」から侵犯され続ける「幕藩」体制

将軍・大名が生まれ、育てられる「奥」***は、京都と禁裏への憧憬の培養器であった。その意味で女子教育は武家にとって危険だった。禁裏と遊郭はともに美の魅力を有し、空間的には封じ込まれながら、人々の想像力を刺戟し続けた。本書、p.338

一方、「泰平」の持続の内に武士のマチスモも軟化し、誇り高い「男色」も衰弱し****、表裏して「女色」に溺れる軟弱さがしきりに嘆かれた(戦国武士の気風を強く残しているとされた薩摩等では、「若道」がなお盛んだったことは象徴的である)。本書、p.338

武士には「武」を輝かす機会もなく、金もない。そして、もはや怖れもされず、憧れもされない。要するにもてない。したがって誇りも持てない。社会的威信が薄れたのである。「御威光」の支配の根底の衰弱であった。本書、p.339

 

*『浮世風呂』に「本居もとおり信仰」(=国学かぶれ)を揶揄した場面がある。

かも子「けり子さん、あなたはやはり源氏でござりますか」

けり子「さやうでございます。加茂翁かもおう(賀茂真淵)の新釈と、本居大人もとおりうし(本居宣長)の玉の小櫛おぐしを本もとにいたして、書入をいたしかけましたが俗さとびた事にさへ(障)られまして筆を採る間いとまがござりませぬ」
青木美智男『近代の予兆』小学館大系日本の歴史11(1989)、p.192より孫引き

 『浮世風呂』の本文に関しては、江戸人の「本居信仰」(1): 本に溺れたい も参照を乞う。

**男色については素晴らしい一文がネット上にあるので、参照されたし。
大江戸男色事情

***本書でも述べられているが、将軍・諸大名の「奥」には、京から輿入れが続いた。
 改めて、徳川将軍15代の正室を見直すと以下のようになる。
①皇室・五摂家からの正室 12名/15代
②そのうち天皇の娘(皇女)を正室としたケース 2名/12名
 参考にしたサイトによれば、これらの婚姻関係通じて、徳川家は武家最高位の家格を有し、実質的に五摂家と同格以上とみなされるに至った、とのこと。しかし、これだけ将軍正室を京から迎えていることの意味は、どう評価するにしても軽くはない。下記参照。
徳川家の歴代将軍とその正室(御台所)

****タイモン・スクリーチ『春画』講談社選書メチエ(1998)
、pp.260-261にこうある。

十九世紀初めの男色総退潮の動向は、私など十九世紀の生産の修辞学に関係があり、「天下」に人口維持の力があるのかという幕末の不安につながっていると見る、より大きなパラダイム転換の一部であったはずである。

 不安や飢饉、そもそも日本そのものがなくなる危険に、ヨーロッパ列強の海軍艦艇の姿をますます見かけることが多くなったことが拍車をかけた混迷の中、狂ったように求められなければならないのは快楽ではなくして、生産であった。

(10)へ続く。

■参照
本記事へ仏語サイトからリンクがありました。下記をご参照。
ちょっとしたお願い

読み終えた部分。

序 章 本書への招待
第一章 「中華」の政治思想――儒学
第二章 武士たちの悩み
第三章 「御威光」の構造――徳川政治体制
第四章 「家職国家」と「立身出世」
第五章 魅力的な危険思想――儒学の摂取と軋轢
第六章 隣国の正統――朱子学の体系
第七章 「愛」の逆説――伊藤仁斎(東涯)の思想
第八章 「日本国王」のために――新井白石の思想と政策
第九章 反「近代」の構想――荻生徂徠の思想
第十章 無頼と放伐――徂徠学の崩壊
第十一章 反都市のユートピア――安藤昌益の思想
第十二章 「御百姓」たちと強訴
第十三章 奇妙な「真心」――本居宣長の思想
第十四章 民ヲウカス――海保青陵の思想
第十五章 「日本」とは何か――構造と変化
第十六章 「性」の不思議

第十七章 「西洋」とは何か――構造と変化
第十八章 思想問題としての「開国」
第十九章 「瓦解」と「一新」
第二十章 「文明開化」
第二十一章 福沢諭吉の「誓願」
第二十二章 ルソーと理義――中江兆民の思想
あとがき

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