原始的蓄積、あるいは、最初の贈与、について
あるシステムが歴史的に生成することと、そのシステムが作動し続けることは異なる。
資本制経済がいったん始まってしまえば、紆余曲折を経ながらも、資本の拡大再生産(=経済成長)が充たされている限りは、資本制経済というシステムは作動し続ける。したがって、現状の世界的なリセッションが永続し、これが景気後退レベルの問題ではなく、恐慌レベルの行き詰まりであるなら、ことは大きい。ただし、今ここで書こうとしているのは別のことだ。
マルクスは、資本制経済が作動していく原理とその資本制経済が歴史上に出現する仕組みが全く異なることを示すため、後者に原始的蓄積という概念を与えた。マルクスの議論では、この原始的蓄積とは賃労働関係の成立を意味していた。宇野弘蔵はそれを労働力商品の成立とも述べた。
この議論だと、西欧で資本制経済が成立したとき、歴史上何がしかの原始的蓄積はその裏で行われているはずである。近世イングランドの農業部門で、エンクロージャ―が拡大し、自作農が没落して賃労働農民となることが、マルクスにおいてはそこに含意されていた。しかし、西欧地域で工場制工業が普及するためには、賃労働者とは別に、一度投資されると回収までに時間のかかるリスクを引き受けるだけの大きな資本(=資金)が既に存在していなければならない。前資本主義西欧世界にどんな投資資金が既にあったのか。
ここに想定されやすいのは、いわゆる、大航海時代から18世紀まで連綿と続く、西欧世界による、非西欧世界の富の(軍事的・政治的な)略奪である。しかし、これを冷静に考えてみるとおかしな事に気付く。
西欧中世末期、商業の復活といわれる事態が出現した。マルコポーロにイメージされるあの時代、東方の珍奇かつ高価な品々(胡椒と香辛料など)が、レパント地方を舞台にして、イスラム商人とイタリア諸都市の商人との間で活発な取引が行われた。ここで蓄積された富は、イタリア諸都市において「ルネサンス」という果実をもたらす。しかし、東方から運ばれてきた物産に見合う西欧の物産は実は当時新しく開発されたドイツ銀山からの銀だった。しばらくすると、南米に巨大な銀鉱脈がみつかり、スペイン王室に巨額の収入をもたらすが、その南米の銀は、結局、アジアの物産と交換され、西欧の懐を素通りしただけだった。
つまり、たとえ西欧に棚ボタ式に南米から天文学的量の銀塊が入り込んだとしても、それをマクロ的にみれば、ちっとも西欧自身の内部留保になっていない、ということになる。それでは、近世西欧は、資本制経済の立ち上げコストをいったいどこから入手したのか。
理論的に考えれば、そのカネは西欧内部から調達した、としか考えられない。それはどういったメカニズムで生み出されたのか。当面、イングランド銀行史の連載をしながら考えてみることにする。
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コメント
かぐら川さん、どうも。
小林昇さんは、1970年代後半に「シビル・マキシマムの提言」という卓抜なエッセイを、『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)に寄稿されていました。学部生時代それを目にして感銘を受けた記憶があります(歳がバレますな)。その後私も『帰還兵の散歩』を読み、小林さんがタダの経済学説史研究者というより、人格的にも深みのある、知的にタフ、かつ素晴らしい書き手として当代一流の碩学であることを知りました。この方から学べることはまだまだ多くあると感じています。
文献ご紹介ありがとうございます。
実は、中断しています「イングランド銀行縁起」の記事を書くにあたって、種本がありました。
新庄博 『イングランド銀行成立期における銀行計画と信用通貨』清明会(1969年)
これを読んでいたので、ご紹介の古谷豊氏の議論はわりとすんなり了解できました。この本で、王政復古後の17世紀後半に逸早く出現する、イングランドでの自由な言説空間、政策パンフレット類の爆発的な流通、によって、古典期学説の基本的アイデアがいろいろ出現していることがわかります。それからすると、古谷氏の議論のほうが、史的解釈として自然です。
逆に言うと、ステュアートを含め、古典期のイングランドやスコットランドのポリティカル・エコノミーを議論するのに、当時のイングランド、スコットランドを巡る経済史、金融史を抑えておかないと、思想の頂上史の検討だけでは、失われてしまう環が多くなるように思いますね。
「資本主義」の本性をさぐる意味でも、イングランド銀行の出現や「ジョン・ローのシステム」はある種の臨界点でしたから、再論するつもりです。
投稿: renqing | 2010年8月 1日 (日) 01時48分
ごぶさたしています。
原始的蓄積の経済理論として後期重商主義(とりわけステュアート)を位置づけ、その背景にあるものを経済史と学説史との理論的架橋のなかで抉剔する労作を残された小林昇さんが亡くなられていたことを一昨日になって知りました。イングランド銀行についてのステュアートの把握は重要なものと、記憶しています(あくまで記憶です)。
web上に適切な論説はないようですが、ステュアートの信用論については、↓。(参考文献欄にはステュアート研究の代表的文献が並んでいます。)
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/shet/annals/het47-50/4902/furuya4902.pdf
投稿: かぐら川 | 2010年7月28日 (水) 22時09分