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2010年8月17日 (火)

佐藤誠三郎「幕末・明治初期における対外意識の諸類型」(1974)②

前回からの続き

■内容目次
 この論文の内容目次を書き出しておこう。

1.徳川日本の対外意識
 ・対外関係のあいまいさと希薄さ
 ・同質性と独自性の強化
 ・帰属感と劣等感
 ・劣等感の補償
 ・対外的危機感の希薄さ
2.西洋の進出への対応
 ・西洋への関心
 ・状況認識の枠組1 ― 「戦国乱世」との類比
 ・状況認識の枠組2 ― 全世界的統一という未来像
 ・状況認識の枠組3 ― 国家間の階統的秩序
 ・状況認識の枠組4 ― 「東洋」対「西洋」
3.展望

■「華夷」秩序の解体と再構築
 この論文の「劣等感の補償」で、概ねこう議論している。
 小国日本は大国中国に対して劣っているという劣等感には、何らかの形でそれを埋め合わせる心理的補償が必要となる。その場合、
①日本と中国の同一化、
②中国古典文化の特権的普遍化と古典期以降の大陸中国の分離、
③日本の全面的卓越性についての詭弁とこじつけ、
があり、②に関しては、荻生徂徠が儒教理念によってその弁証に成功した。
 つまり、三代の治、や孔子の言行という「聖人の道」は、過去のある時点に存在した事実であり、だからこそ理想として意味があるが、それ以降の大陸の現実の歴史とは別に考えるべきだし、事実別ものである。
  換言すると、「聖人の道」の普遍化により、「聖人の道」から大陸国家「中国」のいわばナショナリティを脱色することに成功したことになる。もはやその分離 されたナショナリティを「中国」と呼ぶことはできない。こうして、オランダ人が呼び習わしている「シーナ China」から借用した、日本語「支那」の誕生となる。

■「西洋」の位置づけ
 ここから、渡辺浩氏の『日本政治思想史』での議論を接合する。
  これまでの「華夷」秩序観では、座標軸の原点に「中華」がましましていた。徂徠学によって、その原点から普遍的「華」だけを残し、具体・特殊の「支那」を 分離できた。この価値秩序を認めると、日本人の視界に新たに「西洋」が現われた時、それと「支那」、および日本との優劣が比較可能となる。
 「西洋」の情報が多くなると、「西洋」が優れているのは、軍事力(軍艦・大砲)や科学技術(医学、化学)だけではない、ことがわかってくる。「議会」やら、 「学校」、「病院・孤児院」、「工場」なども優れているではないか。無論、小国日本よりも優れているが、大国支那にさえあらゆる面で優越している。つま り、

儒学者が永年信じていた理想の儒学的統治が、実は現在、西洋で実現しているのだ(渡辺著p.360)

という19世紀半ばの儒家知識人の結論に到達する。

■明治の国家指導者の世界認識

本論文「状況認識の枠組2 ― 全世界的統一という未来像」より

すでにのべたように世界は統一の方向に進ん でいると判断した橋本左内(1834―59)は、その観点から国際情勢を分析し、現在世界の二大強国はイギリスとロシアであるから、日本は当面このどちらかと同盟して安全を守り、軍備強化につとめ、「近国を掠略する」べきである、と主張している。彼はイギリスは「剽悍貪欲」であるが、ロシアは「沈ちつ厳整」であり、「何れ後には魯へ人望帰す」だろうという判断から、同盟の相手としてロシアを選択している。
佐藤著、p.22

  これは、明治の元勲山県有朋の世界認識とほぼ同型と言える。そして、イギリスを米国と選手交替させ、ロシアを打ち負かした後の日本、との全世界統一を巡る世界最終戦争と考えるなら、満州事変の首謀者、石原莞爾と同一となる。

■評価
 佐藤誠三郎というと(保守―革新でいう)保守的な学者という印象があったが、シャープな論旨とザッハリッヒな(諧謔を帯びた?)結論で、非常に読ませる論文であった。認識を改めた次第。必読。

佐藤誠三郎『「死の跳躍」を越えて―西洋の衝撃と日本―』千倉書房(2009年) 、p.3~p.35、所収

◎参照
「普遍」を「特殊」に引きずりおろす方法
「華夷」ではなく「夷華」

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