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2010年8月19日 (木)

佐藤誠三郎「幕末における政治的対立の特質」(1976)

佐藤誠三郎「幕末における政治的対立の特質」(1976)

■内容目次

1.はじめに
2.対外的一体感の高揚と対立の激化
3.再統一への模索

■課題と応答(p.60)

・課題
 西洋列強に対抗できるような強国の建設

・応答
①差し迫った西洋列強の開国要求に対する適切な対応(何をするか?)
②徳川政権の安定化を主目標として構築された従来のシステムを、対外的危機に効果的に対処できる「総動員」システムに変革すること(誰がするか?)

■時期区分
第1期 1853-1860(ペリー来航~桜田門外の変)
第2期 1860-1863(桜田門外の変~八月十八日の政変)
第3期 1863-1868(八月十八日の政変~鳥羽・伏見の戦い)

■著者による、ペリー来航から鳥羽・伏見の戦い、までのスケッチ(p.61)

結論を先にいえば、①については、願望としての攘夷論と現実的判断としての開国論の矛盾が第一・第二期を通じてしだいに拡 大し、一方で攘夷論が公然とは否定しえないたてまえとして猛威をふるうようになるとともに、他方で開国が事実上進行していった。そして第二期の終わりに両 者のギャップが極限的になった時、攘夷のたてまえは現実的判断の前に変容されざるをえず、両者を結合した開国攘夷論が第三期にいたってはじめて支配的と なった。これにたいして②は、挙国一致への願望が高揚したにもかかわらず、それを有効に組織する制度的枠組とリーダーシップとの欠如により、また①につい てのコンセンサスの欠如により、試行錯誤のくりかえしを容易に脱却できず、その過程で徳川政府の権威は時とともに衰退していった。すなわち第一期には将軍 のリーダーシップの強化が主要な目標であったが、それはかえって将軍継嗣をめぐる一橋・南紀両派の対立をもたらしてしまった。

つ づく第二期には朝廷と幕府の一体化(公武合体)が主として諸雄藩の競合的国事斡旋という形で試みられた。さらに第三期になると天皇の下での幕府・雄藩連合 ないし反幕府的雄藩連合がさまざまに構想された。挙国一致を目指す諸構想のこのような競合が、①をめぐる対立を(特に第一・第二期に)増幅したことはいう までもない。しかしこの競合はあくまで対外的一体感を前提としたものであり、それゆえ鳥羽・伏見における小規模な戦闘の勝敗によってあっけなく終止符を打 たれた。

■社会の発達と政治機構のギャップ(pp.63-78)

○徳川の平和のもたらしたもの
・社会統合の高度化
・官僚機構の発達
・リテラシーの普及
・ナショナリズムの滲透

 ⇒ 「皇国」「日本」としての徳川国家の一体化

○支配者層の西洋外圧への反応の違い
・清士大夫、朝鮮両班は、華夷秩序(道徳的観点)観点から西洋外圧を過小評価
・徳川武士は、本来戦闘者であるため、テクノロジーと結びついた軍事力から彼我の力量さに敏感に反応

○危機下(ペリー来航)の武士たちの政治的参加要求
・幕府の意思決定過程への参加要求 ← 親藩大名、外様大名

メンバーの一体感の高揚とそれにともなう参加意欲の上昇とが組織体に及ぼす影響は一方向的ではない。目標とそのための手段 について明確な合意が存在し、しかも下から噴出するメンバーの能動的エネルギーを目標に向って適切に嚮導できる制度的枠組とリーダーシップとがある場合に は、一体感と参加意欲との高揚は、組織体の活力をいちじるしく高めるであろう。しかし目標ないし手段について意見が分裂し、またメンバーの参加意欲を満足 させつつかれらを組織化できない場合、能動化し自発性を高めたメンバーは挫折感を抱かざるをえず、組織体はむしろ解体の危機に見まわれることになる。 (p.68)

■ギャップの帰結

○強要された開国への屈辱感 → 幕府への不信
○幕府の弱体さへの不満   → 幕府の指導力の強化への願望

 ⇒ 一橋慶喜の将軍推挙、従来の大名統制策の抜本的改正、「公議輿論」の尊重

このような統合の危機は幕府が従来経験したことのないものであり、その危機状況を的確に把握することは、幕府当局にはきわめて困難であった。(p.74)

日本の防衛という基本目標についての合意がひろく存在し、またその目標の達成に貢献しようという能動性が高まっていたにもかかわらず、それを有効に組織化する制度とリーダーシップとが欠如していたため、国内の分裂はかえって深まってしまったのである。(p.78)

■薩英戦争、四国連合艦隊下関砲撃による攘夷運動の挫折

攘夷運動の挫折により、対外政策は重要な論争点ではなくなった。八月十八日の政変を画期とする時期における基本的課題は、 挙国一致体制の構築に単純化された。しかしその課題の達成は容易ではなかった。幕府の権威が大きく失墜したこの段階では、もはや幕府の指導力を強化するこ とによっても、また朝廷と幕府との融和によっても、挙国一致を実現することが不可能なことは明白であり、なんらかの新しい連合が不可避であった。 (p.81)

■評価

 ペリー来航からの極めて錯綜とした幕末国内政治史を、明快な図式で叙述しており、それにも関わらず、単純化の弊に陥らないという稀有な作品となっている。幕末政治史についての頭の整理には必読文献だろう。

 なお、この論文は、岩波思想大系56『幕末政治論集』(1976) の解題として書かれたものである。他の巻に比べ、売れないとみて、この巻は古書店ではたいてい二束三文の値段がつけられがちだ。幕末の政治パンフレットが網羅されている資料集に、この解説論文がついているのだから、かなりリーズナブルであることはまちがいないだろう。

 無論、下記論文集も名著である。品切れになればおそらく次回は重版は困難だろう。出版社に在庫があるうちに入手されることをお薦めする。

佐藤誠三郎『「死の跳躍」を越えて―西洋の衝撃と日本―』千倉書房(2009年) 、p.37~p.57、所収

目次
新版の刊行にあたって 北岡伸一
第一部 西洋文明の衝撃
 第一章 幕末・明治初期における対外意識の諸類型
 第二章 近代化への分岐-李朝朝鮮と徳川日本
 第三章 幕末における政治的対立の特質
第二部 危機のリーダーシップ
 第四章 川路聖謨
 第五章 大久保利通
 第六章 岩倉具視
第三部 近代化日本の国際関係
 第七章 協調と自立の間
 第八章 日米関係・その三〇年代と七〇年代
丸山眞男論
新版への解題 御厨貴

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