« ジャパンに必要なのは、シャビではなくビジャである | トップページ | 祝、香川・ブンデスリーガ初ゴール(Dortmund - Wolfsburg 2:0) »

2010年9月11日 (土)

水波朗「指月の譬え」2001年6月『創文』

 以前、自然法と日本の憲法学、という記事を書いた。その元ネタ(の元ネタ)がこのエッセイである。

■故水波氏の日本の学界批判

 十九世紀から二十世紀にかけての哲学の大潮流は、概念化認識の指のみを実在的とし、この指の複数性に躓いて短絡的に相対主義、懐疑主義に堕する新カント派観念論から、指月のゆびの多様性を承知の上で、これらの指が指差す唯一的な真如の月を見る点で斉一的な、もろもろの存在論哲学へと一大転換を遂げた。
 わが国の社会科学者達は、こうした一大転換を少しも知らない。かれらの大半は、新カント派的なM・ウェーバー的科学方法論の意味で科学的な自分達の仕事をするのに哲学を学ぶことは無用で、かえって社会的現象諸事実を超越した 物自体的なものについての形而上学的=非科学的な信念に迷い込む機会になる、としてこれを敬遠する。したがって二十世紀の存在論哲学の諸流派を本気で学ぶような者は、まずはいない。
 こうして法学、政治学、経済学、社会学や文化人類学などの諸分野において、二十世紀の諸哲学は素通りされて、十九世紀的な新カント派観念論が、わが国では二十一世紀の今日もなお圧倒的に支配的である。
  ヨーロッパやラテンアメリカでは、そうした状況はない。高等中学校(リセあるいはギムナジウム)の必修科目たる「哲学」のなかで、量的、質的、に充実した哲学教育を受けて二十世紀の大哲学について十分に教えられ、新カント派学派の数十年前の滅亡も知っている生徒達が、理科系・文科系を問わず大学の学部に進み、卒業して社会生活のあらゆる方面でのリーダーシップを取る知的階層を成してるのである。

・・・。

 これらドイツの憲法学者達(スメント、シュミット、ライプホルツ、 ツィペリウス、ベルンターラー、フリードリッヒ、マルチッチ、ベッケンフェルデなど;引用者注)は、しばしば自著の冒頭で、新カント派的な「存在-当為」 二元論は自ら採るところではないことを、わざわざ述べている。また憲法概念を拡大して、万人の本性適合的認識が洞見する国家的構造法則としての自然法的憲法も実在的なものとし、憲法概念を狭く実定憲法に限定する、新カント派観念論的法実証主義を斥ける点で共通である。
 哲学的立場を異にする複数の憲法諸理論の指々が、ひとしく実在する自然法的憲法の真如の月を指差しているのである。

 このように、故水波氏は批判を展開し、その中に、先の私の記事にも書いたように、実名を挙げて(芦部信喜氏、樋口陽一氏など)、日本の憲法学界の重鎮たちを直撃している。

■丸山真男と新カント派

 そこで私もつらつら考えてみた。この新カント派的枠組を残したことに預かって力があったのは、かの故丸山真男氏ではなかったか、と。

 例えば、『日本政治思想史研究』(1952)においては、朱子学における自然法的傾向をトマス・アクィナスの自然法に重ね、そこから「近代的」なものへの移行を、有名なテーゼ「自然から作為へ」で表現していた。

 もっと有名なのは、『日本の思想』(岩波新書1961)での、「「である」ことと「する」こと」だろう。

  身分社会を打倒し、概念実在論を唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミクスは、まさに右のような「である」論理、「である」価値から「する」論理「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。(『日本の思想』p.157)

 法を法たらしめている、自然法的「である」価値がネガティブなものとされ、「する」価値を称揚する、という戦後的なものは、戦後思想史に影響力(特に、法学部学生?)を振るった故丸山真男氏の著作からも伺うことができそうだ。

■USAは、新カント派 or 二十世紀存在論?

 ただ、戦後日本の学術にも巨大な衝撃を与え、現代日本においてもその引力圏から脱出できないでいるUSA的なものからも、新カント派的な影響はあるようにも思う。故水波氏が「ヨーロッパやラテンアメリカでは」と慎重に限定条件をつけられたのもこの点が絡んでいるものと思う。アメリカ憲法学界の哲学的基礎が二十世紀存在論的なものなのか、十九世紀新カント派的観念論なのかは、ちょっと私には容易に見当がつかないので、ご存知の方がおられればご教示戴ければ幸いである。

|

« ジャパンに必要なのは、シャビではなくビジャである | トップページ | 祝、香川・ブンデスリーガ初ゴール(Dortmund - Wolfsburg 2:0) »

Carl Schmitt」カテゴリの記事

Max Weber」カテゴリの記事

法哲学・法理論」カテゴリの記事

米国」カテゴリの記事

コメント

府川さん

その通りだと思います。

その遠因をさぐって、日本における近代思想史をなぞってみると少し分かることがありました。別記事にしてみます。

投稿: renqing | 2012年2月23日 (木) 05時43分

新カント学派のわが国における延命に関して、僕も”感覚的”におかしいなおかしいなと思いながら来ました。同年代から上の人間に今から言っても間に合わないでしょう。高校生くらいのまだ柔軟な頭の世代に、わわりやすく事例を挙げて、この件を講義することが未来のために本当に大事だろうなとは思いますがね、下手な受験勉強なんかより。

投稿: 府川雅明 | 2012年2月22日 (水) 01時31分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104369/49412687

この記事へのトラックバック一覧です: 水波朗「指月の譬え」2001年6月『創文』:

« ジャパンに必要なのは、シャビではなくビジャである | トップページ | 祝、香川・ブンデスリーガ初ゴール(Dortmund - Wolfsburg 2:0) »