歴史の使い途 / Uses of history
歴史の使い途は、概ね二つある。《工学的》と《存在論的》のふたつ。
一つは未来を予測するためである。過去のデータを集め、その中から何らか傾向性や趨勢、周期性を発見できれば、未来予測に役立ち、うまく生活が送れるであろうと言うわけである。たとえそういう明確な法則性を求めなくとも、様々な歴史的事例を知っておくと、将来一旦ことあるときには、何らかの参照枠にはなる。
いま一つは、自己確認である。「自分はいったい何者で、どこから来て、どこに行こうとしているのか」という問いの探求である。たとえ、親に捨てられ親の顔を知らぬ子でも、自分がいかなる人間の子なのか、知りたくなるものだ。何故なら、肯定的にせよ否定的にせよ、親の歴史的存在は、己がこの世にある前提だからである。そして、いかなる仮説、物語、フィクション、瞞着の類いであれ、自己規定なしでは、人間は一日たりとも生を送れない。
前者を歴史に対する《工学的関心》と呼び、後者を歴史に対する《自己了解的関心》あるいは《存在論的関心》と呼んでおこう。
(註)余談だが、興味深いことに、占いに対する関心も、この二者にあると思われる。つまり、自分に関わる未来を知り、よりうまく人生を送りたいという願いがひとつ。また、自分にフィットする自己規定がなかなか見つからず、潜在的には分かっているのだが、自分では言葉が見つからないとき、占い師という他者から言葉を得ることで、なんとか己の輪郭を定めたいという願望である。
ビジネス誌でしばしば特集される戦国武将の言行録は、《工学的》需要に基づくものと思われるし、繰り返し明治維新ブームが現われるのは、近代日本人が自信を喪失したとき、晴れがましさを感じられる歴史上の帰るべき場所として、《自己了解的》需要が生起するからだろう。
ではなぜ、繰り返し明治維新が参照されるべき特異点となるのか。それは、明治憲法体制(Meiji constitution)が自らの正統および正当性を論証するために大学歴史学アカデミズムを製作したから。これが近因。また、西欧に勃興した近代歴史学そのものが、人類史における《西欧の勃興》の正当性を弁証するために「歴史的」に形成されてきたためである。つまり、「歴史は常に善へ発展する」。これが遠因。ここからすれば、「明治期」が「徳川期」より、人間の幸福の視点からして悪化しているかもしれない、などというトピック構成は問題外となる。何故なら、それが「歴史は常に善へ発展する」という歴史学イデオロギーと矛盾し、端的に言って明治維新の偉業性の否定以外の何者でもないからである。そして、現代史から徳川期への参照可能性は、「維新史」観、はっきり言えば、長州史観(保守と誤解されている革命史観)によって切断されたままなのである。
徳川国家は、1603年に徳川家康が京の後陽成院から征夷大将軍の宣下を受けたときから、1867年、徳川慶喜が京の睦仁帝に大政を奉還し、将軍職を辞するまで264年間、天草島原の乱と戊辰戦争期を除いて内戦はなかった。ましてや、対外的(侵略)戦争は一度たりとも行っていない。また、重要な基礎物資、すなわち穀物などの食糧資源、木材などの建設資源などは全く輸入せずに、ほぼ二百年間、人口三千数百万人の社会を統治していた。
それに比べ、Meiji constitution は、1868年から1945年までの77年間に、日清戦争以後、ほぼ十年ごとに対外戦争を行い、延べ人数で、おそらく数百万人の国内外の民間人被害者、数十万人の民間人戦死者を出しているだろう。歴史的環境が違うのは当然だが、それにしても好対照だ。
現代の価値観からみて、徳川期に幾多の悪徳があったことは否定すべくもない。しかし、そういう悪徳は、西欧の初期近代期や近代期にもそれぞれ存在した*。ましてや、徳川国家の同時代の西欧国家に比べた、平和性、自給自足性は際立って優れている。なにより、戦争による死者の総量は、徳川国家より Meiji constitution のほうが圧倒的に高い。
徳川(early modern)国家を、人類史の立場、そして、《工学的関心》から、再検討する必要性は、21世紀の今日においてますます強まっていると思うがいかがだろうか。
(註)俄かには信じ難いが、フランスにおいてギロチンによる公開処刑は、「人道性」の名のもと20世紀まで存続した。19世紀イングランドは「産業革命」の盛期であるが、この世紀の当初から3/4の期間は、労働者の栄養状態は悪化している。これは労働者の平均身長が短縮していることから得られた最新の産業革命史研究の帰結だ。欧米近代を全否定するだけでは唯の無知蒙昧だが、讃仰するだけなのもある種の愚者と言って差し支えない。必要なのは冷徹に善悪を比較し考量できる知性 intelligence と言うべきだろう。
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