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2010年10月 4日 (月)

歴史の論理と進化の論理/ The logic of history and the logic of evolution

 ある論者によると、歴史において発せられる「問い」とは、

時代の推移とともに人々の認識や知の型が、がらりと変わるのはなぜなのか、あるいは、人々の複雑な行動を生み出すもととなった深部の力は何なのか、
加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社現代新書(2002)
、p.15

と問うことだとある。

そして、この問いを通して考えることは、

後進の者が新たな研究領域に参入したり、新製品の開発に参加したり、新製品の営業に従事したりする際に、自己の研究・新製品・販売戦略のオリジナリティを見出すための、また見出す契機がどこに隠されているのかを知るための、羅針盤を手に入れることを意味します。
同上、p.15

 つまり、歴史を学ぶことはビジネス・パーソンの仕事にも役立ちますよ、というわけである。

 しかし、これは本当だろうか。

 歴史の素材は、過去の出来事だ。そして我々が歴史を「わかった」思うときは、輻輳した事柄の時系列の中に、ストーリーや一定の秩序を見出したときだろう。つまり、過去の中になんらかの整合的な意味を読み取れたと思うときである。この時我々の視線は後ろ向きだ。ではその見えた視界をそのまま、前に向けられるのだろうか。

 現代の進化生物学は、分子生物学などの様々な隣接分野の発展を取り込み豊かになっている。そして進化の謎についての知見を急速に拡大している。では、その発達は、今後の、起きるかもしれない生物進化の「予測」に役立つのだろうか。冷静に考えて、それはいささか難事ではなかろうか。これらの発展はそのすべてが過去に起きた「進化」の「解釈」を、整合的、合理的に洗練させたのであって、「進化」の将来予測に貢献するのが目的ではないだろう。「生物進化」などという、きわめて複雑な現象はその解釈でさえ人間の手にまま余る。すなわち、人間の限定合理的な(bounded rational)知性においては、過去(進化の事実)を理解する(解釈する)ぐらいが関の山なのである。

 歴史を考える歴史学、ないし歴史叙述は、過去の、延べ数十億人の行動の軌跡として織り成された複雑なタペストリーの、模様、柄、を読み取ることが最大限なせる業(わざ)なのである。進化にせよ、歴史にせよ、現に存在するその事柄の集積の中に、いかに幾筋もの豊かで異なる論理を読み取るのか、という解釈の学(ヘルメノイティーク Hermeneutik)において有効なのであり、予測のたぐいの「色気」を出したとたん、「決定論」の陥穽に滑り落ちこむことを覚悟すべきなのだろう。

■参照 弊ブログ記事
加藤陽子『戦争の日本近現代史』講談社現代新書(2002年)

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コメント

T_NAKAさん

コメントありがとうございます。また、興味深いサイトをご紹介戴きありがとうございます。
このブログでの私の「科学方法論」カテゴリーに書いている記事では、すべてその線で書かれています。自然法則は「発見」されるのではなく、いわば「発明」されるわけです。

ただ、この議論を、人文学や社会科学へ無批判的に持ち込むことの危険性は最近感じていますが。

投稿: renqing | 2010年10月 7日 (木) 03時30分

黒駒さん

コメントありがとうございます。2点ばかりres致します。

1)「生物学分野に例えるなら分子のほうではなく」
 私の記事に言葉足らずの面がありましたが、私の意図は、生物進化学を歴史に我田引水的に引いてきて、「例え」ているわけでは全くありません。歴史の推移の論理と、生物進化の論理は、全く同じものだと考えています。
ちなみに、現代の進化学は、DNAの塩基レベルの進化の議論を一つの主戦場としてます(「分子進化」)ので、その意味で私も「分子」と使用しています。

2)「生態学」に関して
歴史の分野に大胆な生態学的考察を加えたものに、梅棹忠夫の「文明の生態史観」があります。その中で、梅棹は、「系譜論」と「機能論」という議論を出しています。従来の歴史(学)的思考法は、「系譜論」的な議論が中心だが「機能論」の側面から考察する必要がある、というわけです。
以前の記事で、その点に触れたものがありますので、ご参照いただければ幸いです。

歴史における発生と定着、あるいはモデルと模倣
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2010/01/post-47f4.html

戴いたコメントの御主意を私がよく理解していないかもしれません。その場合は、御海容下さい。

投稿: renqing | 2010年10月 7日 (木) 03時24分

歴史だけではなく、自然科学の代表である物理学でも根本のところの事情は同じだと思います。
「自然界の法則を発見していくことで物理学が発展していった」というよりも「知覚から得られた a posteriori(帰納的/経験的) な外界の知識を、人間の頭の中にある a priori(先験的) な理性によって、つなぎ合わせ筋の通った物語として創作された」と考えた方がそれこそ筋が通るということでしょう。
そういう内容を「物理学の理論体系の成り立ち 」という記事に書いておりました。
http://teenaka.at.webry.info/201008/article_6.html

投稿: T_NAKA | 2010年10月 4日 (月) 08時28分

歴史は、生物学分野に例えるなら分子のほうではなく、生態学なのだと思います。

投稿: 黒駒 | 2010年10月 4日 (月) 08時09分

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