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2011年1月11日 (火)

小津富之助とは何者か(2)

 私の本居評がまだ書けないので、参考までに他の方の評を引いてみる。

それはつまり程度の差こそあれ善は人間の普遍な必然であり、悪は人間の必然ではないとする思考である。悪はむしろ人間の偶然であり、たとえば鏡の表面に付着したほこりである。それを除去すれば、本来の明鏡に復帰し得るというのが、宋の朱子学の説であり、江戸初期の惺窩羅山の祖述するものも、それであった。そうしてこの思想からは、絶対の善人すなわち「聖人」の存在は主張されても、救済の見込みのない絶対の悪人の存在は否定される。
 以上のような完全善を、人間の現実にそむくとして、まっこうから大きく否定したのは本居宣長である。宣長によれば、凶悪マガゴトは吉善ヨゴトとともに、必ず人間に存在する。が人間の1つの必然であるとともに、悪もまた人間の必然であり、幸福があるとともに不幸があるのこそ、人間の現実であると、道破する。(中略)。人間の現実に即してのこの明快な指摘は、日本思想史の上における、あるいは中国の思想史をも含めれば、極東の思想史の上における、1つの記録であると、私は感ずる。
吉川幸次郎、「仁斎・徂徠・宣長」序、決定版 吉川幸次郎全集〈第17巻〉日本篇(上)、1975年 、pp.545-546(文中の強調フォントは引用者による)

 私は本居は総髪の近代人(=仮面の人)であると思っている。したがって、できるかどうかは別にして、一度は精神分析にかける必要があると感じている。そこからしか、彼が隠蔽・抑圧・投影したもの、つまり彼の(理論)の秘密をこじ開けられないのではないか。

〔参照〕 小津富之助とは何者か?

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コメント

>「近代」という時代について考え、それを乗り越えるうえでも(つまり、renqingさんと目的意識はずれるわけですが笑)、

いえいえ、ズレませんよ。( ̄一* ̄)b
「乗り越え」ようとしている点では究極的に同じです。ただ、我々が百年かかって植え付けられている「(西欧)近代」という観念に対して、「本当にそうなの?」という疑念が私にあるのです。西欧人の言説によって構築されている「近代」は彼等の自己像( self-image )です。我々非西欧人はそれを真に受けていますが、人類史からみてそれが果たして本当に妥当なのか、という点です。そのために徳川日本史を引っ張り出して、相対化し、異化させ、西欧「近代」の正体を見定めようというわけです。

> 本居は一度とり組むべき相手かもしれません。

嫌いなものを無理に飲み込もうとすると食中毒になったりしますから、「食べたい」人に任せれば宜しいかと思います。特に、本居には福沢と同じ戦略的言説がありますので、余計です。私も本居は好きではありませんが、一方で彼の裡にある「秘密」がいったいなんなのか知りたいという抑えがたい欲求もあるので、放置できないだけです。「本に溺れ」てしまうところなどは、同病相哀れむべき点だと苦笑してしまうのですが。

 足踏堂様には、vulnerabilityとcommunicabilityから出発する、人権概念と社会契約概念の拡張と刷新を期待しております。お互いそのほうが人類社会に貢献できると思いますけど(大きく出ました(⌒~⌒))。

投稿: renqing | 2011年1月11日 (火) 13時22分

>総髪の近代人(=仮面の人)

なるほど、直感的に鋭いご指摘と感じます。
ご議論の展開を待ちます。

「近代」という時代について考え、それを乗り越えるうえでも(つまり、renqingさんと目的意識はずれるわけですが笑)、本居は一度とり組むべき相手かもしれません。

投稿: 足踏堂 | 2011年1月11日 (火) 10時06分

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