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2011年1月24日 (月)

平和の配当 徳川前期のベビーブームと社会の複雑化〔徳川史②〕

■徳川ベビーブーム
 長い戦乱のあとにはベビーブームがくる。第二次世界大戦後が典型的である。十七世紀の徳川日本もその例外ではなく、人口爆発とそれに伴う経済成長の時代であった。すなわち、徳川前期(17世紀)の百年間において、耕地面積は30%増加、人口は少なく推計しても2倍(1500万人→3000万人)に増加した。いわば高度経済成長であり、徳川版「列島改造」である。

■高成長のサプライサイド
 この高度成長を可能にしたのが、戦時下の動員経済から解放された各種の資源(リソース)であった。人口が成長軌道にのるまでの労働力は、失業し帰農した雑兵や、徳川権力の武断統治にあえなく改易・減封させられた大名家からの延べ50万人に及ぶ牢人(浪人)たちである。興味深いことに、元禄までの徳川期前半の学芸や文化の世界も、この牢人(失業武士)たちやその子たちに活躍の場を与えていた。林羅山、山崎闇斎や近松 門左衛門などが牢人の子であるのはその一例である。内戦下で発達した土木技術(築城術や河川工事)は耕地開発として貢献した。

■高成長、二つの帰結
 この徳川前期の高度成長による帰結は二つ。乱開発による自然破壊と社会の複雑化である。経済成長による経済規模の拡大は、徐々に列島の環境容量に迫っていた。そのため、17世紀後半に二度、「諸国山川掟」なる法令が公儀から出されている。また、人口1500万人を統治 することと3000万人を統治することを比較すれば、後者がその困難性を劇的に増すことは明白である。徳川権力は準戦時体制の組織、思想のため、徳川前期 の統治は武断的であった。しかし、いよいよそのレベルでは制御困難になってきていた。統治者にはそれが「道徳秩序の乱れ」と映るのは世の東西を問わない。 特に、元禄の高度成長社会に直面した徳川綱吉には被治者たちの「徳の弛緩」と映った。そこで、綱吉は列島史上初めて、下々に「徳」をお説教する君主となっ たのである。それは一面として、被治者を治者と同じく「徳」を理解し実践可能な人間であると見なすことを意味した。


〔参照2〕私の徳川史素描が一応完結している。ご笑覧頂ければ幸甚。
刀狩りはPKOである〔徳川史①〕
平和の配当 徳川前期のベビーブームと社会の複雑化〔徳川史②〕
支配からマネジメントへ ― 啓蒙の系譜(綱吉・白石・吉宗) ―〔徳川史③〕
徳川社会の自己調整 田沼ペレストロイカから寛政「紀律化」革命へ〔徳川史④〕
「ものいう人々」の登場 大衆社会としての化政期〔徳川史⑤〕
「世界史」との遭遇〔徳川史⑥〕
公儀から公議へ〔徳川史⑦〕
瓢箪から駒 誰も知らなかった「明治維新」〔徳川史 結〕

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