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2011年2月 7日 (月)

17世紀末儒家のゴッドファーザー、木下順庵

 徳川前期から中期にかけて、注目すべきキーパーソンがいる。木下順庵(1621~98)である。

 順庵は、京都の松永尺五に学んだ儒家知識人であり、尺五が藤原惺窩の高足であることから、その学統を受け継ぐ京儒の本流といえる。順庵は、長く京の市井で教えていたが、齢四十(一六六一年)にして加賀前田綱紀に京都在住のまま儒者として迎えられる。この時期の弟子に、室鳩巣(加賀前田家臣)、榊原篁洲がいる。そしてこの好学の前田綱紀と儒学を介して親しくなったのが、その江戸屋敷にしばしば御成りした徳川綱吉であった。この縁で綱吉は順庵を一六八二年公儀儒官として譲り受ける。ここに江戸の木門が誕生し、その江戸での弟子が、新井白石、雨森芳洲、祇園南海(紀州徳川家奥医師の子)たち、京都での高弟二名を含めて、木門五先生と呼称されることになる。

 徳川家儒官となった順庵は、その弟子たちの就職を次々と斡旋する。一六八七年(貞享四)に、榊原篁洲を紀州徳川光貞(吉宗の実父)に推し、篁洲は紀州徳川家おいて明律研究や篆刻を含む、幅広い学芸を開花させる。一六八九年(元禄二)には雨森芳洲を対馬宗氏に送り、中国語、朝鮮語に堪能な儒者、外交官としての活躍を可能とさせた。一六八六年(貞享三)に木門に名を連ねた新井白石は、順庵により一六九三年(元禄六)に甲府綱豊(後の第六代将軍徳川家宣)へ出仕し、一八世紀初頭に「正徳の治」を実現させることになる。室鳩巣は、その白石の推挙で一七一一年(正徳一)に公儀儒官に転じ、白石失脚後も、八代徳川吉宗の信任を得て、公儀政治に関与した。こうして、武家上層部に統治の学として、朱子学というより、よりひろく儒学的な知が浸透しつつあったのが、 徳川前期から中期の時代であった。

木下順庵
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/45/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%86%E5%BA%B5.jpg

新井白石
Arai Hakuseki.jpg

雨森芳洲
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/%E9%9B%A8%E6%A3%AE%E8%8A%B3%E6%B4%B2%E3%81%AE%E8%82%96%E5%83%8F%E7%94%BB.jpg

祇園南海
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/810/49/N000/000/004/140913969106022977225.jpg

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