17世紀末儒家のゴッドファーザー、木下順庵
徳川前期から中期にかけて、注目すべきキーパーソンがいる。木下順庵(1621~98)である。
順庵は、京都の松永尺五に学んだ儒家知識人であり、尺五が藤原惺窩の高足であることから、その学統を受け継ぐ京儒の本流といえる。順庵は、長く京の市井で教えていたが、齢四十(一六六一年)にして加賀前田綱紀に京都在住のまま儒者として迎えられる。この時期の弟子に、室鳩巣(加賀前田家臣)、榊原篁洲がいる。そしてこの好学の前田綱紀と儒学を介して親しくなったのが、その江戸屋敷にしばしば御成りした徳川綱吉であった。この縁で綱吉は順庵を一六八二年公儀儒官として譲り受ける。ここに江戸の木門が誕生し、その江戸での弟子が、新井白石、雨森芳洲、祇園南海(紀州徳川家奥医師の子)たち、京都での高弟二名を含めて、木門五先生と呼称されることになる。
徳川家儒官となった順庵は、その弟子たちの就職を次々と斡旋する。一六八七年(貞享四)に、榊原篁洲を紀州徳川光貞(吉宗の実父)に推し、篁洲は紀州徳川家おいて明律研究や篆刻を含む、幅広い学芸を開花させる。一六八九年(元禄二)には雨森芳洲を対馬宗氏に送り、中国語、朝鮮語に堪能な儒者、外交官としての活躍を可能とさせた。一六八六年(貞享三)に木門に名を連ねた新井白石は、順庵により一六九三年(元禄六)に甲府綱豊(後の第六代将軍徳川家宣)へ出仕し、一八世紀初頭に「正徳の治」を実現させることになる。室鳩巣は、その白石の推挙で一七一一年(正徳一)に公儀儒官に転じ、白石失脚後も、八代徳川吉宗の信任を得て、公儀政治に関与した。こうして、武家上層部に統治の学として、朱子学というより、よりひろく儒学的な知が浸透しつつあったのが、 徳川前期から中期の時代であった。
木下順庵
新井白石
雨森芳洲
祇園南海
| 固定リンク
「日本 (Japan)」カテゴリの記事
- 有田焼のマグカップ/ Arita porcelain mug(2024.04.25)
- 佐藤竹善「ウタヂカラ CORNERSTONES4」2007年CD(2024.04.18)
- Taxman (The Beatles, 1966)(2023.11.30)
- LILIUM: ラテン語によるアニソン/ LILIUM: The anime song written in Latin (2)(2023.11.28)
「Tokugawa Japan (徳川史)」カテゴリの記事
- 徂徠における規範と自我 対談 尾藤正英×日野龍夫(1974年11月8日)/Norms and Ego in the Thought of Ogyu Sorai [荻生徂徠](2023.08.30)
- 暑き日を海にいれたり最上川(芭蕉、1689年)(2023.08.02)
- Giuseppe Arcimboldo vs. Utagawa Kuniyoshi(歌川国芳)(2023.05.24)
- 徳川日本のニュートニアン/ a Newtonian in Tokugawa Japan(2023.05.18)
- 初期近代の覇権国「オランダ」の重要性/ Importance of the Netherlands as a hegemonic power in the early modern period(2023.05.15)
「思想史(history of ideas)」カテゴリの記事
- Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948(2024.08.17)
- Seki Hirono, Unearthing the Forgotten History of Ideas, 1985(2024.07.14)
- 関 曠野「忘れられた思想史の発掘」1985年11月(2024.07.13)
- Otto Brunner, Land und Herrschaft : Grundfragen der territorialen Verfassungsgeschichte Österreichs im Mittelalter, 1939(2024.06.08)
- Kimura Bin, "Il sé come confine", 1997(2023.12.31)
コメント