徳川前期の「文明開化」
徳川前期のエポック・メイキングな事柄は、中国大陸における明清革命(1644年)、すなわち明から清への王朝交替(「華夷変態」)である。大陸におけるこの大変動の余波は、徳川前期日本に静かだが、深く長い影響をもたらした。
なぜ、深く長い影響を与え得たか。それは大陸の知識人(禅僧)が数多く、そして長期に来朝したためである。すなわち、日本黄檗宗の開祖、隠元隆き (いんげんりゅうき、インゲン豆の由来とも)が、中国僧20余人を連れて1654年に来朝したことが直接の起点となり、その後、半世紀余、中国禅僧の来朝 をみた。これは仏教上のことというより、当時の徳川学芸全般(経学、書、絵画、篆刻、琴など)に大きな影響を与えた。高々、20人というかなれ。12世紀フランスの神学者クレルヴォーのベルナルドゥスは、1112年ころ近親・兄弟30人とともにシトー会修道院に入り、シトー会を隆盛に導き、キリスト教中世世界に巨大な足跡を残した。堅忍不抜の士が一致して20数人も活動すれば、世の中にかなりの影響を与えることが可能なのである。また、亡命明儒、朱舜水が、 1655年に来日し、結果的に水戸学の礎を作ったことは、その後の水戸学の影響を考えれば軽視できない。
それまでの大陸文明の影響が、文物の移入か、列島からの留学生、留学僧が持ち帰り体現した知によるものだったのに比べると、この「華夷変態」では、大陸の知的人士の集団が、宗教的情熱と使命をもって列島の土を踏んだ点が特筆されるべきだろう。
ただし、大陸、ないし朝鮮半島の知識人が列島の近世知性史に大きな影響を人的接触によって与えた前例は、近世儒学の祖、藤原惺窩に影響を与えた姜沆(朝鮮の朱子学者、慶長の役1597年の捕虜)があり、見逃せない。
黄檗僧たちの影響が深甚だったのは、タイミングの問題もある。内戦が終結してから既に約半世紀が経過し、列島は平和の報酬、つまり高度成長を手に入れつつあった。経済を含む社会規模が年々拡張しており、社会全体に現世を肯定する楽観的な見方が行き渡っているときであるから、異質な他者を受け入れる社会的余裕があったことは否めないだろう。
この黄檗僧による生(なま)の中国文化の流入、つまり明風の受容(中野三敏)が前期の徳川社会にひとつの方向付けをすることになり、これが徳川中期の荻生徂徠の古文辞学(明需)や徳川吉宗の明律研究に基づく法治国家構想への前奏曲となるわけである。
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