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2011年2月13日 (日)

眼球は自分を制御するためにある

 普通、視覚は外界の情報を知るためにあると思われている。

 確かにそれもある。しかし、それと同じくらいの重要さで、自己の身体の、外界との相関情報をキャッチし、その身体を制御するためにあるのだ。

 ハンディ・ムービーを撮影するとよくわかる。撮影後、そのビデオを見ると一番気付くのは、ムービーの揺れ、すなわち、手元の動きだろう。そして、例えば、画面が上下に揺れると見ている自分も上下に揺れている感覚に襲われる。

 つまり、視覚は、動物にとり、対象物との相対距離や相対速度をはかって、動き回る自分の身体を適切にコントロールするところに文字通り主眼(!)があるわけだ。試しに、目を瞑って、急須に入れたお茶を手元の湯飲みに入れてみる。左手で湯飲みをつかみ、右手で急須の取ってをしっかり持っても、急須の注ぎ口を湯飲みに触れさせながら入れない限り、なかなか難しく、結局湯飲みのないところにこぼしてしまうのだ。

 フィギアスケートの浅田真央がローティーンからミドルティーンに成長している際、突然、得意のジャンプが不調になったことがある。それは、彼女の身長が伸び、眼球の物理的高さがそれまでの自分の身体サイズと変わり、スケートリンクの、彼女の目線からの相対的高さにも変更がおこり、ジャンプの最適な踏み切りのタイミングが、それまでの彼女の身体サイズと変わってしまったことに起因する。世界トップの競技レベルでは1/10秒以下の精度の狂いが結果に大きく影響するということなのだろう。

 この「眼球は自分を制御するためにある」ということを教えてくれるのが、

J.J.ギブソン著『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』古崎 敬訳、サイエンス社 (1986/03)

である。人間の生物としての奥行き感覚は、中学校の美術で習う遠近法と全く異なる原理によって獲得されていることも、この書を読むと教えてくれる。一読後、自分の外界認識に奇妙な変化があらわれる点は、塩沢由典の読後感と似ている。

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