自分の声を自分の耳で聞くことはできない
何年も前に、プロの声楽家に確認してみたことがある。自分の耳で聞く自分の声と、聴衆が聞いているあなたの声とは違いますよね。回答は、その通り、自分が聞く自分の声は、自分の声帯の振動が、頭部の骨を通じても鼓膜に伝わってしまうので、自分の歌声を自分の耳で、正確に聞き手が聞いているようには認識できない、と。したがって、プロの声楽家は、自分の声を、プロの声楽指導者である他者にチェックしてもらうしか方法がないのだと。だから、自分の声を録音で聞くと変な感じがするでしょう?と。
このエピソードを思い起こしたのは、あることが気になったからだ。それは、我々が手にしている近代的学問の枠組は、すなわち大学で教授されるような組織的な学問の枠組は、ほぼすべて西欧近代に負っている。そのため、我々日本人の手持ちの、西欧近代像は、実はそのほとんどが西欧近代自身の記述の所産であり、描像なのだ。我々の脳裏に存在する、「近代西欧」像とは、西欧近代の自画像、ないし自己像 self-image に他ならない。
おそらく、そこには、声楽家が自分の声を、自分の耳で正確に聞くことが原理的にできないことと共通するアポリア(あ、西欧語だ、笑)がある。少なくとも、そう疑う余地は多いにあり、そう一度は考えるべきだろう。
私が徳川日本の「近代性」の正負両面を、西欧近代と双対 dual なものとして考えようと企てているのもそのためだ。そこからしか、人類の「近代」をやり直すことが、どうもできないのではないか、というのが私の出発点である。
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