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2011年8月25日 (木)

複雑系と歴史学 ※20161208追記

 まずは、二つの本から引用をご覧戴きたい。

引用Ⅰ

 私は具体的基準の段階に留まる。私が出発したのは日常性であった。生活の中でわれわれはそれに操られているのに、われわれはそれを知ることすらできないもの。習慣(l'habitude) ― 慣習的行動(la routine) と言うほうがいいかもしれない―、そこに現れる何千という行為は、それら自身で完遂され、それらについて誰も決定せねばならないということはなく、本当のところ、それらはわれわれのはっきりした意識の外で起こっている。人間は腰の上まで日常性の中に浸かっているのだと私は思う。今日に至るまで受け継がれ、雑然と蓄積され、無限に繰り返されてきた無数の行為、そういうものがわれわれが生活を営むのを助け、われわれを閉じ込め、生きている間じゅう、われわれのために決定を下しているのだ。(pp.15-16)

私の理解する物質生活とは、長い歴史を背負った人類が、まさに内臓の中に吸収するように、彼自身の生に深く合体させているものであり、そこではあれこれの過去の経験なり興奮なりが、日常生活の必要性、凡庸性、となっているのだ。そうであるが故に、誰もそれに注意をはらおうとしない。(p.17)

引用Ⅱ

 習慣的行動は、まさにそれが習慣であるという理由で、その起源を問われることがない。しかし、そこには学習と試行錯誤にもとづくたいへんな知恵が隠されている。(p.107)
  習慣的行動がほとんど思考の媒介をへることなくなされることは、その行動が単純なものであることを意味しない。それらは課題のしばしば巧妙な解決であり、経験に裏打ちされた実行可能解なのである。合理性の限界のもとでは、それはけっして最適解ではないだろう。しかし、諸動作の系列が、ある目的にとって解として満足すべきものなら、その定型はひとつの習慣として固定化されていくだろう。
 われわれの行動の多くは、こうした習慣的行動、つまり固定化された半自動的諸動作のプログラムからなっている。やや比喩的にいえば、習慣的行動は建築物のモジュールにたとえることができよう。一日の行動は、多くの習慣的行動のモジュールからなっている。個々のモジュールの性能を問うことはできるが、彼の行動の全体を作り出すのは、むしろモジュールの組みあわせ方であ
る。そのようなものとして、行動の各モジュールは、単純で標準化されていることが望ましい。目的をもつ人間行動の多くがこのようなモジュールとしての機能をになっている以上、それらが習慣的行動からなっていることは、むしろ当然なのである。(p.108)、Ⅰ-2「人はなぜ習慣的に行動するのか」

 出典は、それぞれ下記。カラー・フォントは引用者による。

Ⅰ フェルナン・ブローデル『歴史入門』中公文庫(2009年)
翻訳底本
Fernand Braudel, LA DYNAMIQUE  DU CAPITALISME, MISS A. NOBLE, PARIS, 1976
Ⅱ 塩沢由典『複雑さの帰結 ― 複雑系経済学試論 ―』NTT出版(1997年)

 私の“複雑系理論歴史学”(笑)も、上記二つの座標軸で構成される空間上に位置する。その最初で最大のターゲットが《徳川史》ということになる。

〔参照〕弊記事 「あたりまえ」の認識論 ※20161208追記

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