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2011年11月 7日 (月)

レシピと設計図 その科学哲学風考察

 生物学者の中村桂子氏はそのエッセイ*で、遺伝子は生物の《設計図》と言われることがよくあるが、それを機械や建築物の《設計図》のように考えてしまっては誤解を招く、もし例えるなら、むしろ料理の《レシピ》をイメージしたほうがより適切だ、と述べている。

 中村氏の言を我流に言い換えればこうだろう。

 機械の《設計図》やコンピュータの《プログラム》なら、同じ図面なら同じものができるはず。しかし、同じものができるためには、完全に細部まで仕様が指定されてなければならないし、それが同じものができるための担保ともなっている。

 しかしながら、遺伝子による生物の形態形成では、各器官の形成において、遺伝情報の発現には一定の幅が存在し、ある遺伝部位の形質が発現したりし なかったりする。だから、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、随分見た目や特徴が異なったりする。つまり、遺伝情報に書き込まれている生物の仕様書は、あえていえば《だいたい》のものだ、ということになるだろう。

 料理の《レシピ》も、それに基づいて誰が作っても、同じ味、見た目になる保証があるわけではない。同一人物が作ったとしても、味が微妙に変わったりする。これは《設計図》の概念と全く異なる。

 それでは、料理の《レシピ》と生物の遺伝子の強い共通性は何か。それは、結果における、だいたいの安定性、だろう。この「だいたい」に肝心な点が ある。つまり、料理や生物の形態形成において、大事な点とそうでもない点があり、大事な点においては、複製が正確になされる必要があるが、そうでもない点ではある程度のエラーは許容され、それがかえって多様性を生み出す根拠ともなっていることだ。

 生物において最重要なことは《生きる》という点であり、生命維持の確率を低めるものでなければ、その発現は確率的な過程であり、制御されてはいない。生命維持に関わるエラーは、奇形等となり、大抵は出産時に死亡している場合がほとんどである。

 料理においては、例えば、カレーライスなら、カレーライスの範疇に入っていればよく、ライスとともに食べる、辛い味、などが維持されて、かつそれなりにおいしければ、その結果は許容されるだろう。

 つまり、機械にはその仕様を指定された各部位に、重要度の差異はなく、どれほど小さい部品や部位でも、欠ければ機能不全か、最終的には壊れる。 一方、生物は、《生きる》という目的の下、その目的に対して中心的な機能部位と周縁的な機能部位があり、前者に対しては遺伝子からの仕様指定はかっちりし ているが、後者については確率的な過程となっている。語義矛盾な感じもするが、いわば生物は《個多様性を持った機械》なのだ。我々が使用する machine としての機械にそれが出現しては混乱のもとになるだけだが、生物においては、それが生物全体の生存確率をかえって高めているわけだ。

 以上を見てくると、この世に存在して機能しているもの(creature)には、2種類あることがわかる。機械と生物である。では、《制度》なる ものは、どちらの範疇にはいるのだろうか。ギリシャの国家破産が目前であり、今またイタリアもその二の舞となろうとしている。イタリアがデフォルトしたら、ユーロは空中分解する。人工物という点では機械と同じだが、人間の思い通りにいかない、という点では、生物と同じだ。この問題を考えるために社会科学 という学問があるのだが、あまりうまくいっているとも思えない。

 この点、再考ということにする。

*「生き物として生きる」中学3年生国語教科書(光村図書)

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科学哲学/科学史」カテゴリの記事

コメント

足踏堂 様、コメントありがとうございます。

 結局、「最善」や「最適」なるものを発見できる、と考えてしまうところに、近代の驕り(Arrogant Modernity)があるように思います。困難でも最善を求め努力することと、あたかも神の視点から最善手の存在を予定してしまうことは、本質的に異なることです。

 一つの環境相には、多様なタイプの生物が存在します。つまり、一つの環境相に最適な種は1つとは限らない。そのうえ捕食-被食関係を通じて、それらの種のpopulationは調節され、通時的にはバランスが回復されます。捕食-被食関係さえもその相の一部だということになります。

 人間を含む、卑小な生物個体から見た《世界》は無限と言うべきサイズです。その《世界》に対して当然のごとく最善手を求めるのは驕りであり、「これが最善手だ」と言うなら、それは自らを神に擬するに等しい。仮に最善手だと信じても、それは己の切り取った(切り取らざるを得なかった)ミニマルな《局所的な世界》の最善手なのだ、という慎みが必要でしょう。それこそが本当の「品格」です。

 世上のTPP推進論者たちに最も欠けているものこそは、この「品格」です。

 《制度は設計できるか?》という話題を別記事として書くつもりです。

投稿: renqing | 2011年11月 9日 (水) 11時44分

ご無沙汰しております。先般は当方へのご来訪ありがとうございました。お返事したためたのですが、そこでのPCの調子が悪く、いまだあがっておりませんが、そのうちに。

最近売れている長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー新書) は、なかなか面白い本で、生物学の入門書としても優れていると思います。
エサを見つけたアリについていくアリの動きについて書かれていましたが、見つけたアリにそのまま忠実に付いていくアリだけの場合よりも、何割かの確率で道を間違えるアリがいた方が、全体としては、エサへの最短距離を発見するのに資するということがわかりやすく説明されています。

何割かの確率で間違うという存在が、より全体効率性を高める契機になるという事実です。経済学で政治学を語ってはいけない理由だと言ったら、飛躍しすぎでしょうか。しかし、machineの方だって、適応できなくなれば淘汰されていくわけで、進化のためには「非効率の許容こそ効率的」という観点は普遍的かもしれません。


もうひとつ。
茂木健一郎と斎藤環の往復書簡である『脳と心』(双風舎)は、《だいたい》のものという点がひとつのイッシューになっています。
昨今の脳科学ブームなど、素朴な脳還元主義には両者とも大反対なのですが、斎藤の茂木に対する論難は、クオリアを指向・志向すること自体が、ある種不可能な還元主義でナルシシズムではないか、というものです。
茂木はそれに対し、近代科学主義の可能性を追求したいという旗をかかげ、ある種のモダン/ポストモダン論争の二番煎じなのですが、この二番煎じ、なかなか美味しいのです。

《だいたい》を分析しあくまで設計図を追求していく立場と、それが現実への処方としては全く役に立たないと主張する立場との相違です。設計図で誰でも美味しい料理をつくれるようにできるという信仰と、美味しい料理の要因は違うところにあるという主張の対立かもしれません。

ほころびの見え始めた近代制度。為政者たちのアプローチの貧困さにかなしみを覚えます。

投稿: 足踏堂 | 2011年11月 8日 (火) 09時08分

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