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2011年12月15日 (木)

東南アジアにおける《国学》の弱さ

・・・。ただ、わたしが気になったのは、それぞれの国における「国学」のよわさなのである。その点は、日本の場合とひどく事情がちがうのだ。日本の場合は、明治以前にすでに膨大な日本研究の伝統があった。自然科学の面でも、本草学の発達によって、動物相・植物相の研究の下地はできていたのである。人文科学の面では、もちろん歴史研究や古典文学研究はひじょうにさかんであったし、漢学・洋学にならんで、「国学」というジャンルは、はやくから確立していたのである。

漢学にあたるものは、タイ、ビルマにもある。仏教の坊さんたちによるバーリ経典の研究はそれであろう。洋学はもちろんある。しかし、国学がよわいのである。     梅棹忠夫「タイからネパールまで―学問・芸術・宗教」(1962年)、梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫(1998年) 所収、pp.280-281

 日本・中国・韓国における、比較《国学》研究といったものがあるのか寡聞にして知らない。少なくとも東アジア思想史において、かなり重要な分野だろうと思う。ご存知の向きは教示戴ければ幸甚。それにしても、梅棹忠夫という学者の発想力には唸らされる。

※本記事の下部、コメント欄もご参照を乞う。

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コメント

>洋化への反動

モダンな国学は、契沖(1640-1701)から始まっています。その機運は、「洋化への反動」というより、17世紀半ばに東アジアに起きた驚天動地の《華夷変態》という事態、つまり大明国の崩壊の衝撃を、列島の知的世界がエピステーメーの崩壊として受け止め、それを突破しようとした日本人の知的運動の一つの現れです。これは、丁度、17世紀の徳川社会の高度成長(徳川社会の《近代化》)と偶然にも重なりました。ここに日本初期近代の知性史の独自性とねじれがあるように思います。

投稿: renqing | 2011年12月25日 (日) 01時44分

その意味では、国学にせよ民俗学にせよ、ある文化を内面から(柳田国男のいう里人の目)実感しつつ、それを多かれ少なかれ外部者の目で記録する、という一種の二重人格が要求される学問ではあるわけです。まず客観性をもって記録する、自己を記録者と規定するという時点で、すでに里人そのものではなくなっているからです。

たしかにその意味で、水戸学のようなイデオロギーでない国学も民俗学も、モダニティの産物といえそうですすね。だから洋化への反動としてだけでなく、国学=宝暦天明期、民俗学=大正期というモダニズムの嫡子、とみることも可能でしょう。あるいはそれもまた伝統とモダンの二重人格、ともいえそうですが。

投稿: まつもと | 2011年12月24日 (土) 09時23分

参考まで。

本居宣長(1730年享保15-1801年享和元年)
ヤーコプ・グリム(1785年天明5-1863年文久2)

投稿: renqing | 2011年12月23日 (金) 13時28分

まつもとさん、どうも。

民俗学=近代の「国学」であり、国学=徳川期の「民俗学」なのですね。

つまり、グリム兄弟も、ドイツの「国学者」なのです。総じて言うと、ロマンティシズムという、近代における反近代の思潮と位置づけられます。まつもとさんのご指摘から離れてしまいますが、こういう視点からの西欧ロマン主義と徳川国学の比較研究は、「近代 modernity」の正体を炙り出すために必要だと考えます。

投稿: renqing | 2011年12月23日 (金) 13時21分

ご無沙汰しております。この点に関しては、わたしが前々から思っていたのは、東南アジアでの民俗学の弱さです。まあ日本民俗学も菅江真澄などがルーツになっている面もあるので、国学の国粋主義的な方向でない枝分かれ(梅棹のいうカッコ付きの「国学」も、おそらくそういう意味でしょう)と言えるのかもしれません。

原因としては、中国の対抗帝国といったアイデンティティの創造意欲を刺激されるような立ち位置でなかったこと、人や文物の出入りが妙に自由だったことなどは考えてよいと思います。日本も、タイミングとして国学が蘭学や漢訳洋書流入への反動、民俗学が文明開化期への反動の時期に成立したことを考えると、たとえば室町期などにはこうした契機はあんがい弱かったのかもしれません。

あと梅棹が指摘していないだけで、東南アジアでも中国との長いせめぎ合いを経てきたヴェトナムなどには、国学的なものの可能性はあると思います。琉球にも「おもろさうし」がありますし。

ラオス辺りは中等教育を受けた若者も増えてきているので、民俗学的な記録作業をやっておくと良いところ・時期だとは思っているのですが。

投稿: まつもと | 2011年12月22日 (木) 07時46分

足踏堂さま

コメントありがとうございます。

国学の問題は、もう少し慎重に考える必要があるかもしれません。

日本近世思想史における、儒教vs.国学という知的構図は、ドイツ19世紀のロマニストvs.ゲルマニストという知的対立に類比可能です。こういう思想史上の配置が、朝鮮や中国大陸にあったのか。もうちょい要考察です。

投稿: renqing | 2011年12月16日 (金) 04時16分

う〜ん、ぼくは梅棹のすごさがわからないんですよね。
renqingさんがいままで考えられてきたことからすれば、梅棹の疑問も大した問題じゃないような気がするのですが…
この国の国学っていうのは、ある種地理的なものから要請されたんじゃないかという気もするのですがどうでしょう。日本の国学がそれなりの発達を果たしたとすれば、それはむしろ、海向こうの中国側の事情の影響だったりしませんかね?
まあ、よくわからないところなので、さらなるご議論の展開を期待します。

投稿: 足踏堂 | 2011年12月15日 (木) 15時56分

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