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2012年1月30日 (月)

身分再考(2)

「プディングの味は食べてみなければわからない」という有名な言葉がありますが、プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。身分社会を打破し、概念実在論を唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験ふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」論理、「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。
丸山真男 『日本の思想』岩波新書(1961年) 、p.157

 《身分の溶解》が都市化やぜいたく禁止法の廃止と関連することを指摘するのは、川北稔*である。

*川北稔 『イギリス近代史講義』講談社現代新書(2010) 、第一章「都市の生活文化はいかにして成立したか」、pp.39~52

われわれからすると、上流の生活を送ってい れば上流なのだというのは当たり前ですが、もともとはそうではありませんでした。どのような恰好をしていても、上流は上流、農民は農民だったのですが、見 かけがむしろ優先される社会になっていきます。これが都市生活の大きな特徴です。この現象は十六世紀の後半ごろにロンドンで成立します。
川北稔、同上、p.52

 人々を行動(生産)に駆り立てる不安、行動(生産)を通じてしか他者に表せないアイデンティティー。これが資本主義的、あるいは近代精神のダイナミクスとほぼパラレルであり、成長パラノイア的心性と等価なのは明らかだろう。

〔参照〕
身分再考
川北稔『イギリス近代史講義』講談社現代新書(2010年)〔その1〕
人には生まれながらに尊卑の別がある
人には生まれながらに尊卑の別がある(2)

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コメント

歴史と伝統については難しい問題もあるが、我々は歴史と伝統を守るにかこつけて歴史と伝統の悪をこれからもを引きずるのはどうだろうか。歴史と伝統と現代的価値観の相克をどうすべきだろうか。
歴史と伝統の中には現代的価値観からすれば悪のものもある。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月12日 (金) 06時41分

上の連中の魂胆も卑しくありませんか。働かせるだけ働かしておいてお前らは卑しい身分なんだから、麻生財務大臣が言ったように下々ののものなのだから、1見さんお断りとか家元制度とか政治経済の要人の世襲とか。
そんなこという人間メディアで見ませんでしたか。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月11日 (木) 16時20分

そしてモーレツ社員とか企業戦士とかで日本国民を家庭や人生を崩壊させるほど働かせたのは事実上社会主義国家だった日本の上の連中なのです。

投稿: 古川浩一の | 2018年10月11日 (木) 16時13分

そこで人権、市場原理、自由競争を社会にゆきわたらせることで歴史によってもたらされた悪を滅ぼそう、という風に考えてました。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月11日 (木) 15時57分

そして経済的に成り上がる身分制度を打破する経済的な機会均等のためにはアメリカ式資本主義も必要だと、僕は考えていました。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月11日 (木) 15時52分

それと近代精神のダイナミクスは人権の主張、抑圧からの解放というのも大きいんじゃないでしょうか。そのための手段として経済的に成功する、成り上がる、というのもあるんじゃないでしょうか。
マルクスの言ったように、すべての歴史は階級闘争の歴史であるというのもあるし、やはりそういう過去の歴史にもとづいた差別というのは先進国にもあるんじゃないでしょうか。それはやはり打破すべきではないでしょうか。日本の政治家がオバマ大統領のことを奴隷の子孫とかいったし、そんなものは根深く世界に日本社会にも残っているんではないでしょうか。歴史と伝統の問題もこの問題には絡みます。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月11日 (木) 15時47分

renqing様、かと言ってどうします?僕も歴史を大学で専攻し、社会に興味を持ち、ずいぶん考えました。ちなみに僕の大学の時の指導教官は川北稔です。僕も社会経済その中の人間のあり方についてはずいぶん考え
それは古川浩一のブログという僕のブログや古川浩一阪大卒の掲示板という掲示板にずいぶん書きました。基本的にたどり着いた結論は、パンと平和がもたらされているならあんまりごちゃごちゃしたことを
実行することを社会に対して要求すべきでない、ということで豊かな国でひもじい思いをする人間を出すべきでないということです。僕は日本国民は経済成長を節約してももっと余暇を追求すべきだとすら考えてます。
経済成長にこだわって猛烈に働いて家庭を崩壊させたとかではなんのための経済成長か分かりませんものね。そしてそれは資本主義経済でも可能でしょう。まあ、日本は事実上社会主義国家だった、多分今でもそうなわけですが。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月11日 (木) 15時30分

古川浩一 様
コメントありがとうございます。

 弊記事の主張は、「である」価値から「する」価値への相対的重点の移行、近代精神のダイナミクスが、事実上、資本主義のダイナミクス、あるいは、成長パラノイア(という病)、と同型の心性ではないか、ということだけです。
 私だって、生まれや門地、家柄で、職業選択の自由が無い状態は、まっぴらです。かつての実在した身分社会に戻りたい、などと思う訳がありません。
 しかし、
過猶不及(すぎたるはなお及ばざるごとし)「論語‐先進」
です。残念ながら、我々の生きるこの現代社会の構造には、ほどほど、中庸というリミッターが内蔵されていません。
 「機会費用 opportunity cost」という概念をご存知でしょうか。近現代資本主義の性格を如実に表現する概念です。
 ある事柄の価値は、その資源のポテンシャルを最大限発揮したとき得られる return 、benefit との差で測定されるのです。ここにおいて、idle な状態は最大の罪となります。
 私は、こんな忙(せわ)しない世界も、正直言って、願い下げです。
 近代精神のダイナミクスは、ある時期、人類に善をもたらしました。しかし、その一本調子の発展は今日、反転して私たちに悪をもたらす至っています。ではどうすればいいのか。
 私にも実はわかりません。少なくとも、このままでは人類は(少なくとも私は)、幸福ではないだろう、ということは、21世紀の今、明らかなのではないでしょうか。
 〔追記〕(在来型石油の)ピークオイルが2006年にきていたという、IEAの報告があります。それからすれば、石油価格は高騰し続けるでしょう。現実の世界に「打ち出の小槌」や「永久機関」が存在する余地はありません。とすれば、遠からず、人類史は、石油の制約により、中庸orほどほど、を嫌々でも受け入れざるを得なくなるでしょう。
 そのときに、人類社会に働くダイナミクスは、「近代精神のダイナミクス」と異ならざるを得ない。これが私の当面の考えです。

投稿: renqing | 2018年10月 9日 (火) 01時30分

どんな経済体制下でもどんな経済学で考えてもたいていの人間は食べて寝て排泄しないと生きていけないし、そのためにしなきゃいけないことは誰かがしなけりゃいけない。そしてどんな経済学で考えても資本主義の経済学でも社会主義の経済学でも何もしないで財サービスは湧いてでない。その財サービスを供給するためにする仕事、社会を維持するためにする仕事がそれぞれ世襲とかで固定されてる社会、強制されてる社会、暴力で決定される社会はやはりゆがんだ社会じゃないだろうか。そこに生きる人間の人間性もやはりゆがめられたものじゃないだろうか。我々はそういう人間性に対して批判的にあたる必要があることが多くないだろうか。どうでしょ。

投稿: 古川浩一 | 2018年10月 6日 (土) 17時08分

府川さん

前近代から近代への変貌も、なし崩し的であまり劇的なものだったわけではなかったと思います。おそらく、ポスト近代へも、色々な兆しを発しながら、グズグズとなし崩し的に半世紀ぐらいで移行するのではないでしょうか。挙げられた例がその兆しの一つかどうかはまだ分かりません。しかし、可能性の一つではあると思います。その心性がどのくらいのペースでマジョリティになるかどうか、です。

投稿: renqing | 2012年2月 2日 (木) 12時59分

なるほど。してみると月15万円の派遣労働で買い物はいつも100円ショップで満足という生活者は、成長パラノイアを捨てたのか。単に不景気だからその生活に甘んじているのではなくて、物心ついたときからそもそも成長幻想がない若者たちが、統計調査では生活満足度が高いと出ている。これは近代が終焉したのでしょうか。一過性のものなのでしょうか。

投稿: 府川雅明 | 2012年2月 1日 (水) 01時37分

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