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2012年2月23日 (木)

新カント派の亡霊について

 以前の記事の続きらしきものを書いておく。

 まずは、引用から。

 第一次世界大戦を境に、それ以前には大きな影響力をもっていた新カント学派の哲学は、急速にその勢いを失う。これは、この大戦とその後の歴史の現実が、人間の主観性と対象構成に依拠する行き方の限界を、おのずから明らかならしめたためと考えられる。

 なお、わが国では、明治末年から大正時代にかけて、桑木厳翼(くわきげんよく)、朝永三十郎(ともながさんじゅうろう)、左右田喜一郎(そうだきいちろう)らによってこの学派、とりわけ西南ドイツ学派の哲学が本格的に移入され、時代の文化主義的風潮とも呼応しながら、一時期アカデミー哲学の主流を形成した。同学派の西洋哲学史観などは、今日までなおその大きな影響をとどめている。
日本大百科全書(ニッポニカ)、「新カント派」、坂部 恵

 今は亡きカント研究の大御所の記述だから、信頼できそう。新カント派の第1次大戦後の滅亡、そして、日本におけるガラパゴス的生存。

 米国の憲法学が新カント派かどうかはいまだにあまり分からないが、法実証主義の大陸系と英米系の2源泉の記述がwikipedia「法実証主義」にあり、それが一つのヒントになりそう。

I.英米系の法実証主義
  Hume → Bentham → J.Austin → H.L.A.Heart → R.Dworkin, J.Raz
II.大陸系の法実証主義
 Hume → Kant → H.Kelsen(第二次大戦中に米国亡命) → H.L.A.Heart  → J.Raz

 ということで、米国には、Humeから来る法実証主義の伝統とKant、Kelsen経由で来る法実証主義が同居しているらしい。

 米国に、マイケル・サンデルをはじめ、立派なことをいう大政治哲学者(?)が数多いるというのに、グアンタナモ刑務所のような人権無視が堂々とまかり通るのは、こういった思想史的背景も力が預かっているのではないか。

※グアンタナモ収容所については、下記のアムネスティの記事をお読みください。

米国 : 10年以上も続く、グアンタナモ収容所における人権侵害 | ニュース | AMNESTY INTERNATIONAL JAPAN


新カント派の亡霊について(応答1)、へ

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コメント

漢字文化圏における「法」

またまた連投で失礼します。

前の書き込みで"law"(ドイツ語なら"Recht")を「法」と訳すのがそもそもいいのかと問題提起しました。
前回書き忘れましたが、中国の「法家」はそもそも「性悪説」の系譜にあり、「性悪」の民を支配するのに「法」が必要だという考え方です。
漢字文化圏における「法」という言葉と「人間の本性(別な言い方をするなら『理性』)から導き出される規範」という考え方は水と油のようなもので、日本で「自然法」が受け入れられないのはそういう理由もあるのではないでしょうか。

投稿: がんちゃん | 2012年2月27日 (月) 22時24分

管理人様:

もともとじっくり論じるような性質の話ですし、お仕事もおありでしょうから、お時間がかかったとしても何も気にはいたしません。管理人様もどうぞお気になさらず。

投稿: がんちゃん | 2012年2月27日 (月) 22時15分

がんちゃんさん

コメントありがとうございます。

貴コメントの内容が多岐にわたるため、また不運なことに私自身の仕事が立て込みだしたため、返信には少々時間がかかることをご海容戴ければ幸甚です。

投稿: renqing | 2012年2月27日 (月) 10時42分

アメリカにおける自然法

私は英米法を大学で選択しなかったので、現代米国憲法学の動向には疎いですが、法思想史の通説的見解ではJohn Lockeの自然法・自然権論がアメリカ独立宣言及びアメリカ憲法に大きな影響を与えた、ということになっています。以下の独立宣言の一節を読めば一目瞭然です。

"WE hold these Truths to be self-evident, that all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness"

我々は、真実はおのずから明らかであり、全ての男性は平等に造られ、彼らはその創造者によって奪うことのできない権利を与えられ、その権利には生命、自由、幸福の追求が含まれるということを固く信ずる。

ですからアメリカにおいて法実証主義的な考え方が憲法学で主流となることは考えにくいです。

アメリカにおいて銃規制に対する抵抗が強いのは、Lockeの(暴政に対する)「抵抗権」の担保として民衆が銃を持つべきだと考えている人が多いからではないのか、と推測しますが、確証は何もありません。

ちなみに上で"Men"を「男性」と訳したのは半ば嫌味で、アメリカにおいては19世紀まで女性は男性に従属する存在で(ある歴史学者は「奴隷と共通するところがあった」とさえ表現した)ほとんどの場合父や夫の「保護」の下にあり自分の考えで財産を処分することも認められなかったこと、女性の投票権が米憲法で保障されたのは1920年であることなどによります。

投稿: がんちゃん | 2012年2月27日 (月) 00時56分

連投です。内容が違うので分けました。
以下は私なりの自然法論に対する疑問です。

以前の投稿から、自然法論者の意見として
>>万人の本性適合的認識が洞見する国家的構造法則としての自然法的憲法も実在的なものとし、憲法概念を狭く実定憲法に限定する、新カント派観念論的法実証主義を斥ける点で共通である。
というものが引用されていましたが、いくつか論じたいことがあります。


0."natural law"を「自然法」と訳すのが正しいのかどうか。(<=ここ余計かも知れませんが)
0.1."natural"とか、"nature"という言葉の含意は古典中国語由来の「自然」という言葉で拾いきれない。そもそも儒教道徳を批判した道家用語である「自然」を、道徳規範かつ法規範である"natural law"にあてはめていいのでしょうか?
まさに引用文にあるように"nature"という言葉は日本語にしたときに「本性」という意味を含むわけですが、「自然」と訳してしまうとそこが抜け落ちます。明治時代には「性法」と訳したケースがあったとか。その方が本来の意味を汲んでいるとも思えます。
0.2.”law”という単語も、自然科学分野では「法則」と解釈されることが普通です。人間の定めたものだけが"law"ではないのです。また前項と同じですが、古典中国語の「法」を"law"の訳語にあてるのが正しいのでしょうか?
0.3.古典中国語の「法」と「自然」を組み合わせることが、言葉としてちぐはぐなものになっているのではないか。


1.「万人の本性適合的認識」
1.1.そもそも「万人の本性適合的認識」というのが存在するのか?そうだとしたらなぜ世界には多種多様な民族が存在して違った社会規範、社会制度を持っているのか?そもそも19世紀までは西洋人の言う「国家」を持たない人々もいたのに「国家的構造法則としての自然法的憲法」ということに意義があるのか?という批判に"natural law"の理論は耐えられるのでしょうか?
1.2.私個人としては、どうやら生物としてのホモ・サピエンスの大体の個体が進化的に獲得した特性("human 'nature'"[笑])として「物事を『善』と『悪』とで判断したくなる習性」を持っているようだとは考えています(とはいえ、前項にも書きましたが『善』と『悪』の内容までは遺伝的に規定されているようではないですね)。ただし、それはあくまでも進化的に獲得されたもので、21世紀の社会を個人が渡ってゆく、あるいは大きな社会、組織を運営する上で「物事を『善』と『悪』とで判断」することで、かえって誰も彼もがしんどい目に合うということもありうると考えています。なので「自然法」を人間行動のよりどころとすべきだと考えること自体に全く共感できません。
もっとも、「形而上学的存在」を信じる人にとっては「現世レベルでしんどい」かどうかはどうでもいいことなのでしょうか。
1.3.もう一つ、"human 'nature'"について書くならば、最近の「利己的遺伝子」を前提とした動物行動に関する研究は、「生物の個体は自分の子孫を最大限増やすように行動しているのであって、一見利他的な行動であっても、ほとんどすべて子孫の数の最大化の観点から説明できる」ということを明らかにしてきています。
私は、創造論者でもクリスチャンでもないので人間も他の哺乳類と同様の部分を持っていると考えています。
私の目からは熊本大学の山田秀教授の
「(略)諸問題を、可能な限り根源的に解明しようとする人間的な努力。そのときに頼りになるものはあるでしょうか。それがあるのです。自然法です。これは、名称はどうであれ、各人の存在の奥所にきちんと書き込まれている。だから頼りになるのだ、と思います。」
という文章はあまりに楽観的過ぎて滑稽にすら見えます。

もちろん、1.2と1.3は真面目なクリスチャンにとってはさして意味のない批判であり、「人間は神の似姿として創造されたものである。他の生き物とは本質的に違い、理性を持ち合わせているものだ。そして進化論こそが迷信だ」とか言われておしまいなのでしょうが。


2.日本における「国家」と「法」
管理人様は日本の法学界で新カント主義・法実証主義が生き残っていることを日本の「思想史」との関連から考えておられるようですが、
2.1.法制史的に見れば「近代法」も「国家」も西洋列強と対等な立場に立つために急ごしらえで西洋の真似をしてこしらえたもので、そんなものの背後に「人倫の普遍的原理」があると考える方が、実定法学者とすれば普通ではないでしょう。
2.2.自分たちは「普遍的」というけれど「自然法論」はほとんどユダヤ・キリスト教的な信仰を前提としているのではないでしょうか?
日本でも田中耕太郎元最高裁長官はクリスチャンで自然法論者の立場からKelsenを批判しましたが、正直、氏の文章はキリスト教を信じない者には納得はしがたいものに感じられました。

2.3.逆に日本発であってなおかつ普遍を目指す「自然法論」というのは私の知る限りないようです。というか、日本という国の建国神話(単に「国生み神話」を指すのではなくて、たとえば「敗戦をきっかけに日本は民主国家に生まれ変わりました」というのでもよいのですが)には普遍を目指す要素が最初からない。


「日本人は自分たちを特殊だと思いたがる」というのが日本の「思想史的特性」だとすれば、ある意味では、あつまかしく「普遍」をかたる(語る?騙る?)西洋的「自然法」が受け入れられる要素は今までもなく、これからもないでしょう。

投稿: がんちゃん | 2012年2月27日 (月) 00時19分

20年前の学部時代法哲学・法思想史のゼミに所属していた者です。
なぜか一連の記事では触れておられないようですが、日本の法学界で新カント主義・法実証主義が健在だとしたら、一時日本の法哲学界で勢力のあった(今はどうか存じません)碧海純一東京大学教授が新カント主義者Kelsenに影響されて法実証主義を主張したことが関係しているものと思われます。私の指導教官も碧海教授の弟子でした。
碧海教授は弟子をあちこちの法学部に送り込んでいましたし、「法哲学」の教科書として碧海教授の著書が用いられることも多かったようです。

ただし弟子のすべてが碧海教授の新カント主義や法実証主義を継承しているわけでもなく、弟子の中には森村進教授のようにリバタリアリズムに関心を移した方や嶋津格教授のようにハイエク研究を研究の柱としておられる方もいらっしゃいます。

投稿: がんちゃん | 2012年2月26日 (日) 22時24分

ありがとうございます。非常にわかりやすいです。僕のような高校生にも充分理解できます。僕よりできの悪い高校生も用語を変えさえすれば分かると思います。

投稿: 府川雅明 | 2012年2月26日 (日) 19時57分

府川さん

>国家が優先になる考えか、個人が優先になる考えか

そのカテゴリー分けは少し違う気がします。
プロテスタンティズムは、神と、何者にもとらわれない(剥き出しの)個人の結びつきの価値を強調しました。つまり、逆に言うと、個人と神の間にある、中間団体の存在価値を否定しました。それがローマ教会というAnstaltへの挑戦だったわけです。

それは結果的に原子論的社会を生み出し、一方、寄る辺ない裸の個人は、危急存亡の際には一気に《国家》へと飛びつきます。これが米国人を容易に国家主義者にする一つの背景となっていると思われます。

投稿: renqing | 2012年2月26日 (日) 03時05分

fearon さん

>日本て新カント派に影響されまくりなんでしたっけ?

おそらくそうです。試みに、http://ci.nii.ac.jp/
で、John Finnis、を検索してみてください。2件しかヒットしません。
 ただ、日本になぜ新カント派がこうも跋扈するのかといえば、日本の土壌それはピッタリ合うからです。そこには根深い思想史的背景があるかもしれません。私には新カント派のイデオロギー批判は、本居宣長の儒教批判と似ている気がしますので。

投稿: renqing | 2012年2月26日 (日) 02時28分

国家が優先になる考えか、個人が優先になる考えか、非常に大雑把ですが、この二つの対立概念からハイスクールボーイにも思想の区別を説明できますかね。

投稿: 府川雅明 | 2012年2月26日 (日) 00時18分

府川雅明さん

 最後の三行は、意図的な揶揄として書きました。日本でもてはやされている法哲学者、政治哲学者を多数擁する米国で、なぜこうも明らかな国家犯罪が堂々と繰り返されているのか、昔から疑問だったからです。この「テロとの戦い」に公然と批判すると米国では大学に居られなくなる状況が今でも続いていると思われます。一種の言論・思想統制です。これと似たことは米国では良く起こっていて、典型的なのは半世紀前の「マッカーシズム旋風」でしょう。

 これらを通じて思うことは、米国における「国家」とそれを守る「軍」の、我々の想像を絶する重みです。以前から、プロテスタンティズムと国家主義の関連(カトリックと反国家主義との関連)に猜疑の念を抱いていたのですが、今は、これに加えて、プロテスタンティズム―国家主義―新カント派という三位一体を考えています。米国哲学の教父たち、プラグマティストのデューイが若き頃ヘーゲリアンだったことやパースがある面で深く、カントとヘーゲルに影響されたことも、この件と関連あるかも知れません。

 うまくまとめて言えませんので、頭を整理したら、別記事で書いてみます。

投稿: renqing | 2012年2月25日 (土) 04時14分

fearonさん 

残念ながら、日本で、生ける法として「自然法」の全体像を学べる大学はなさそうです。

英語圏で最も著名な自然法学者は、John Finnis (オックスフォード名誉教授)です。まだ健在ですので、本気で学ぶ気があるなら、彼に直接相談した方がよいでしょう。↓

John Finnis
Correspondence address:
Oxford Law Faculty
St. Cross Building,
St. Cross Road
Oxford OX1 3UL
john.finnis@law.ox.ac.uk
a law tutor at University College
the faculty of law at the university of oxford
http://www.law.ox.ac.uk/profile/john.finnis

投稿: renqing | 2012年2月25日 (土) 03時43分

ラストの3行。マイケル・サンダルとグアンタナモ収容所の愚行と新カント学派の思想との連関がわかりません。わかりやすく、ハイスクールボーイの僕にも説明してください。

投稿: 府川雅明 | 2012年2月24日 (金) 23時23分

自然法とか勉強できる大学て、あります?ヨンパルト先生がいた上智とか?

投稿: fearon | 2012年2月24日 (金) 07時39分

日本て新カント派に影響されまくりなんでしたっけ?

投稿: fearon | 2012年2月24日 (金) 07時36分

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