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2012年3月12日 (月)

新カント派の亡霊について(応答1)

がんちゃんさんから、幾つかご質問がありました。
まだこの年度替りの多忙から脱出できていませんが、
答えられそうなものから簡略に応答することと致します。

ちなみに、この応答は部分的なものなので、
このエントリーにresをつけて戴くと旧いご質問への
応答と混線する危険性があります。恐縮ですが、
これまでのご質問へのブログ主の応答がとりあえず一段落
するまでresはご遠慮ください。 → がんちゃんさん

①新カント派と碧海純一氏の関連

碧海純一氏の著作は不勉強のため、読んだことがありません。
したがって、日本における新カント派と碧海純一氏の関連についてお答えできません。

ただ、この議論の震源地である、故水波朗氏の批判の眼目は、イェリネック『一般国家学』の憲法理論(典型的な新カント派)を理論的フレームワークとする、日本の憲法学(者)です。具体的には以下のような人々。

美濃部達吉、佐々木惣一、宮澤俊義、清宮四郎、黒田覚、芦部信喜、小林直樹、杉原泰雄、樋口陽一

そして、その衣鉢を継ぐ、現代の東大・京大を頂点とする憲法学(者)です。具体的には、長谷部恭男氏(東大憲法学教授)などとなるのでしょう。

また、碧海純一氏の弟子筋の分流として、リバタリアニズム、ハイエッキアンを挙げられていますが、これらの(北米的?)人々も、その構成主義的手法、すなわち個人から出発して、社会をそういったパーツから構成されたものとしてみるアプローチにおいては新カント派的枠組を踏襲していると考えられます。個人はミクロ的実在だが、社会はマクロ的仮象に過ぎない、というわけです。「“社会”などというものは存在しない。存在するのは“隣人”のみ。」とはハイエクのスローガンです。

碧海純一氏の影響力の大きさに関しては、弊記事「自然法と日本の憲法学」でコメントして戴いたBarl-Karth氏のコメントにも、その一端は伺われるようですね。

②「自然法」の適訳は natural law か? 自然法則と混乱しないか?

 英語でも、普通に、

 自然法 ⇔ natural law

 自然法則 ⇔ natural laws , the laws of nature

と言ったりするので、日本語の訳し方としても、それほどおかしくはないと思われます。ただ、ご指摘の「性法」とか、「天地ノ公道」といった幕末維新の日本語訳のほうが適訳だったかもしれない、という部分は同感です。

一つ付け加えますと、古代ギリシアでも《法》の認識は、発生的には人間相互間の掟として《法》が先で、人間の世界(コスモス)に掟があるなら、自然の世界(コスモス)にも掟があるだろう、という認識の投影がなされ、それが徐々に《自然法則》の探求として独自になされるようになった、というのが科学史の通説ではなかったかと思います。

応答2〕へ続く

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コメント

ばしくし さま

コメントありがとうございます。

私は既存の学問の区分を徒に軽視するものではありませんし、これまでの人類の先達による蓄積には最大限の敬意をはらうものです。

ただ、私たちを取り巻く《世界》のほうには、別に理系や文系という領域が埋め込まれているわけではなく、単にのっぺらとした《一様かつ一体》のものとして私たちの眼前に《存在》しているに過ぎません。

そうはいっても、矮小な私たち人間の《合理性の限界》のため、その《一様かつ一体》のものを、ありのままの《一様かつ一体》のものとして認知できないため、やむを得ず《世界》を細切れにしてあれこれいじくってみるしか方法がない。

したがって、既存の学問区分の成立にはそれ相応の根拠があります。ただし、それは《世界》の側の事情ではなく、情けないですが人間の側の事情によるものです。

そういう《世界》への敬意さえ肝に銘じて忘れないならば、思考の武器はいくらあってもよろしいので、多いに援用すべきだし、できればそうしたいと願っている、というところです。

強いて超領域でいきたい訳ではないですが、探求の過程で《世界》そのものの連続性のため、結果的に超領域ならざるを得なくなり、その際、既存の学問領域の方法論で間に合わなくなったなら、いろいろな領域から部品を借りてきて、自分で一つ一つ組み合わせ、組み立てて、登攀途中のベースキャンプに仮小屋を作る仕儀になります。

その過程の副産物がこの弊ブログ記事でして、もしこの中に一つでも他所様、ばしくし様のお役に立つものがあるならば、幸甚の至りです。

投稿: renqing | 2012年6月 5日 (火) 02時01分

そうですよね。文系理系とか本当に関係ないですよね。言語を用いて論理を以って話を進めることに学問の垣根などありませんよ。

むしろ、物事の見方というか視野の違いを理解して自分の中で総合解釈する力が大事だと思います。
巨視的視点による鳥瞰と微視的視点による積上をいかにきっちりと踏まえて統合していけるかなんですよね。

数学:積分と微分
経済学:マクロ経済学とミクロ経済学
物理学:ニュートン力学と量子力学
有機化学:環式有機化合物と鎖式炭化水素
政治学:国際政治学と国内政治学
宗教学:多神教と一神教
社会学:社会進化論と伝統保守論

投稿: ばしくし | 2012年6月 4日 (月) 23時02分

fearon さん

ジェノサイドと人権、というテーマなら、是非、このシリーズの(3)にリンクをつけたアムネスティのサイトをご参照ください。近年のジェノサイド(ルワンダなど)の例などがわかります。

投稿: renqing | 2012年4月 2日 (月) 02時56分

実は自然法について調べたきっかけは、下記のリンクの議論からでした。

-ジェノサイドと人権について-
http://togetter.com/li/103677
人権の範囲は国家を超えるのかとか。。

自然法を調べているとこちらの「本に溺れたい」のblogにたどりつきました。

投稿: fearon | 2012年4月 1日 (日) 19時57分

fearonさん

>法学部ってやること多くて、思想とかに手が出せないんでしょうね。

そんなことないですよ。優れた法学者に、思想史の造詣の深い方は大勢います。ケルゼンしかり、カール・シュミットしかり。H.L.A.ハートしかり。法思想史・法学史、法哲学、などは、思想史に関する知的基盤が前提の学問でしょう。

fearonさんが、法曹界を目指しているなら、今は上のような道草を喰っていては、危険ではあります。

弁護士になってからでも、思想史の造詣を深めることは意義深いことです。

投稿: renqing | 2012年4月 1日 (日) 02時04分

fearonさん

>日本で自然法学ぶとなると、、ヨンパルト先生あたりとかになるんでしょうかね。もうご引退されましたが。

ホセ・ヨンパルト師は、今年1月に
『自然法と国際法―ホセ・ヨンパルト教授著作集 』成文堂
なるものを出していることからみて、未だ意気軒昂のご様子。直接本人に尋ねてみたらいかがでしょうか。以下が出版社のアドレスです。師の現在の連絡先を一度聞かれることをお薦めします。
株式会社 成文堂
本社・出版部
〒162-0041 東京都新宿区早稲田鶴巻町514
電話番号  03-3203-9201
FAX番号   03-3203-9206
出版部メールアドレス henshubu@seibundoh.co.jp
営業部メールアドレス eigyobu@seibundoh.co.jp

>あと、本に溺れたいさんは、政治学専攻やと思っていましたが、理系だったんですね。失礼致しました.

いえ、元はといえば、理論経済学専攻でした。というか、Max Weber に一番関心がありました。まぁ、今となっては、学問の垣根にあまり興味はありません。使えるものは何でも使う、が今のスタンスです。理学修士もその延長戦上でのことに過ぎません。

投稿: renqing | 2012年4月 1日 (日) 01時50分

>>日本で自然法学ぶとなると、、ヨンパルト先生あたりとかになるんでしょうかね。もうご引退されましたが。

あぁ、すいません。上記の質問、連投になってしまいましたね。

法学部ってやること多くて、思想とかに手が出せないんでしょうね。

投稿: fearon | 2012年3月18日 (日) 21時38分

日本で自然法学ぶとなると、、ヨンパルト先生あたりとかになるんでしょうかね。もうご引退されましたが。

あと、本に溺れたいさんは、政治学専攻やと思っていましたが、理系だったんですね。失礼致しました.

投稿: fearon | 2012年3月18日 (日) 21時31分

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