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2012年11月18日 (日)

《経済成長》から《知識成長》へ(後編)

前編〕からの続き。

■A knowledge growth theory on half-truth

J.S.Mill が縷々強調したように、個人の意見の正しさというものはたかだか《half- truth》にすぎない。だとすれば、葦のような人間には完全な真理(whole- truth)に永遠にたどり着けない。しかし、それは悲しむべきことか。そうでもない。

どれほどの超天才が現れ、彼の超アイデアがどれほど素晴らしく完璧にみえようとも、所詮それも神ならぬ生身の人間の業、《half- truth》の閾を越えることは決してできない。したがって、彼に続く人々にとって遣り残されていることは実はいくらでもある。それを他面から見て、シジフォスの寓話のような徒労と考える必要は全くない。未来に向けていくらでも成長していけると考えればよいわけだ。

そこで少し考えなければならない点がある。それはこうだ。人類がこれまでに集積した知識があり、それが例えばある種の百科事典(K0)のようなものだとする。そこに大天才G氏が登場して、新アイデア(g)を付け加える。もし、Kが1億ページあり、gが1000ページだとすると、

1=K0 +g=1億+1000=100,001,000(ページ)

となりそうだ。

しかし、知識にはページを新たに付け加えるタイプ(量的)なものもあれば、量は増加させないが、既存の知識の優先順位・軽重や相対的位置関係、つまり知識総体のproportionに変更を迫るようなタイプ(質的)なものもあるだろう。例えば、アフォーダンス理論(J.J.Gibson)や環世界論(J.J.B.von Uexküll)、塩沢由典の《複雑さ》に関する議論などは、それを知る前と知った後では我々の世界の見方にある種の不可逆の変化の痕跡を残すと言う意味で後者のタイプの知識だと思う。

後者の知識を百科事典のたとえで言えば、それまでノンブル(ページ番号)のなかったこの百科事典にノンブルを付して*、それまで不可能だったランダムアクセスを可能にしたりすることとか、新しいキーワードによる新索引を付したりすることに相当するとも言えよう。

*グーテンベルクの聖書にはノンブルはない。印刷本にノンブルを付けたのはアルドゥス・マヌティウスである。これが書籍の歴史に不可逆の変化をもたらしたのは明白。

■T.S.Eliotの議論(There is nothing new under the sun.)

上記のような議論をもう随分前から考えていて、そんなことは誰かが言いそうなことだが、とボーッとしていたらウン十年近くたってしまっていた。ところが、である。T.S.Eliot の Tradition and the Individual Talent(1919) にこうあった。

The existing order is complete before the new work arrives; for order to persist after the supervention of novelty, the whole existing order must be, if ever so slightly, altered; and so the relations, proportions, values of each work of art toward the whole are readjusted; and this is conformity between the old and the new. Whoever has approved this idea of order, of the form of European, of English literature, will not find it preposterous that the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past.
Tradition and the Individual Talent. T.S. Eliot. 1921. The Sacred Wood; Essays on Poetry and Criticism

現在ある秩序は新しい作品があらわれないうちは完結しているわけだが、目新しい作品が加わった後でも持続したいというのなら、現在ある秩序全体が、たとえ少しでも、変化を受けなければならない。こうして一つ一つの芸術作品が全体に対してもつ関係やつり合いや価値が修正せられてゆく、これが古いものと新しいものとの順応なのである。ヨーロッパ文学とイギリス文学の形態についてこの秩序を認めた人は誰でも、現在が過去によって導かれると同じように過去が現在によって変更されるということをさかさまだとは考えないだろう。
T.S.エリオット 『文芸批評論』岩波文庫(1962) 、p.10

エリオットがこの批評を発表したのが31歳のときだから、まあ賢い人物は若いときから賢いのね、というのが一読した後の感想。

今年の初めに、三中信宏氏の系統樹思考の議論についての違和感を記事化した。それでもしっくり言語化できてはいなかった。それを今上記のエリオットの言葉を使えば腑に落ちる。つまり、

the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past
現在が過去によって導かれると同じように過去が現在によって変更される

というわけだ。

〔註〕エリオットのこの批評文については、下記の本から教えられた。外山先生ありがとうございました。引用の主眼は異なりますが。
外山滋比古 『思考の整理学』ちくま文庫(1986) 、pp.54-59「触媒」

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