「わかる・できる」マトリックス(2)
実行可能性 | |||
できない | できる | ||
理解可能性 | わからない | A | 受験業界(C) |
わかる | 教育学者(B) | D | |
カテゴリーCを方法論的自覚のもとにやっているのが、コーチング業界だろうか。
足踏堂氏の引用の、マサチューセッツ大のエプスタインという心理学名誉教授「経験的システム」と「分析的システム」に関しては、既存の概念との対応関係をみるとこうなるかもしれない。
「分析的システム」→認知心理学 「宣言的知識(Declarative Knowledge)」
哲学 「knowing that (G. Ryle
)」
「経験的システム」→認知心理学 「手続き的知識(Procedural Knowledge)」
哲学 「knowing how (G. Ryle)」
う~ん、いろいろ出したがあまり考えがまとまらん。捲土重来。
| 固定リンク
「知識理論(theory of knowledge)」カテゴリの記事
- 「鐘」と「撞木」の弁証法、あるいは、プロンプトエンジニアリング(2)(2023.08.12)
- 「鐘」と「撞木」の弁証法、あるいは、プロンプトエンジニアリング(1)(2023.07.19)
- You don’t know what you know(2023.07.16)
- Wataru Kuroda's "Epistemology"(2023.05.01)
- 黒田亘の「認識論」(2023.04.30)
「学習理論」カテゴリの記事
- Failure is a part of learning / 失敗は学びの一部である(2022.11.12)
- 心の扉の開き方/ How to open the door to the heart(2022.05.05)
- The Body as Empirical Rationalist(2022.04.25)
- 経験的合理主義者としての身体(2022.04.25)
- 日本の教育システムの硬直性は「儒教」文化に起因するか?(2021.05.18)
コメント
発見しました。以下が市川氏の「動機論」です。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20110602-OYT8T00171.htm
さて、これで「意欲」は生じるでしょうか。
投稿: 足踏堂 | 2012年11月12日 (月) 20時20分
renqingさま
今回も長文、大変失礼致します。
自分でも混乱している議論を、renqingさん相手なら、と甘えの気持ち満々で吐き出してしまい申し訳ありません。最近、平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)をおもしろく読んでいるのですが、この本は平田の演劇そのままに、ノイズをたくさん含んでおり、そのことが論理だった文章よりも、深く胸に残ったりします。そういう狙いもあります(笑)
renqingさんのマトリクスとの対応はその通りなのですが、私が受けた衝撃は、活性する脳の部位が違うという事実です。つまり、分析的システムと経験的システムは、一次独立の能力であるということの方の驚きなのです。そうすると、この両者はいかに「つながっているか」ということが最大の関心事となります。
たとえば、私が分析的システムの代表だと思う能力は「批判思考力」です。この力は、(経験からくる)「直感」を疑う力だと思うのです。
では、この能力は経験なしに得られるものでしょうか? 言い換えれば、「批判思考」もまた、「わかっ」ているだけでなく、「できる」ようになる必要があるのではないか、「分析的システム」自体が、「経験的システム」を通してしかできるようにならないのではないか、という面倒くさい議論です。
さらに、自分で混乱を自覚している事項に、「意欲」の問題があります。
平田オリザは、コミュニケーションについて、先の書で、最近の若者はその「能力」が低下してしまったわけではない。その「意欲」が低下しているのだと喝破しています。
これは、実は勉強法を考えるうえで、もっとも重要なことではないかと私は思っています。なぜなら、ある程度の学習は、手順を踏んで基礎から進めていけば、誰でもある程度までは達するものだからです。
でも、多くの「落ちこぼれ」と呼ばれる子たち、あるいは「普通レベル」くらいの子たちも、そもそも学習へ向かう「意欲」を持ち合わせていません。(ところで、社会経済的成功と学歴が直結する現代中国では、若者たちの学習への意欲は物凄いものがあると、中国でコールセンターの管理業務をされていた方が報告してくれました。)
すなわち、「経験的システム」によって「できる」ようになるには、試行回数(つまり経験)が命となるはずですが、それには絶対的に「意欲」が必要なのではないか。こういう面倒くさい議論(partⅡ)です。
とりあえず、ノイズだらけの私の疑問を勝手にここに記させていただき、さらにはrenqingさんの善意に甘えて、うまくいけば、renqingさんの頭脳もお借りしようという二重の罪を犯していることを自覚していることを告白いたします(笑)
いずれにせよ、以上のような構造を真と仮定すれば、市川氏の本は、「十分に意欲がある高校生」を対象としているため、もはやほとんど需要がなく、市場価値は皆無という結果になっている気がするのです(いや、あれは指導者向けとしては十分に機能しますけれど、それなら題名を何とかするべきかと思います。『大学に受かったら読む「正しい受験勉強法」』とかどうでしょう笑)。
(意欲に関しては、私は絶対に外在的なものだと思っています。「わかった」という経験が学習への意欲を生むというのは、かなり怪しいと思うのですが、これはまた別の議論ですのでまた別の機会に、と書きつつ、また「甘え力」を発揮!爆)
投稿: 足踏堂 | 2012年11月12日 (月) 20時11分