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2013年12月31日 (火)

ひとつの徳川国家思想史(11)

「五 尊王攘夷思想の成立と展開」

■寛政《紀律化革命》の中期的効果と長期的帰結
①《委任》原理 ⇔ 『御心得之箇条』(1788年)、尊号事件(1789年)
②「鎖国」原則の祖法化 ⇔ ロシア使節ラクスマンへの諭書(1793年)

定信の狙いと中期的効果
①朝廷-幕府関係の明確化 → 「幕府」の内政権限の強化
②対外関係の明確化    → 「幕府」の外交権限の強化
※「幕府」による「日本」の《主権化》の最初の一歩

長期的帰結(権限の明確化 ⇔ 責任の所在の明確化)
①委任された政務の遂行の責任の明確化 → 「尊王」
②鎖国体制の保持の責任の明確化    → 「攘夷」

  ⇒ 政治理論としての「尊王攘夷」思想の成立

■名分としての尊王論の確立:幽谷と山陽
藤田幽谷『正名論』(1791年)
頼山陽『日本外史』(1827年)
①儒家の「正名論」=《名》と《実》のズレは、《名》を《実》に収束させる
君主であることの《名》徳性・能力の《実》⇒《名》を失う、易姓革命へ
②尊王論の「名分論」=《名》と《実》のズレは、《実》を《名》に収束させる
君主(天皇)は民心統合の名のみ、責任なし → 権限なし ⇔ 定信の《委任》原理
※この考え方は後の明治憲法における《君主無答責》原則と等価

■政治理論としての尊王攘夷思想の確立
会沢正志斎『新論』(漢文)(1825年)
 ⇒ 後に『雄飛論』(読み下し文)題名され刊行 ← 海外雄飛の構想が幕末志士を掴む
①尊王=「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、国家目的への協力に純一ならしめる
②攘夷=弛緩した人心を引き緊め、国家の統一性を強化するための国内向けプロパガンダ
「近世を通じて存続した国家意識が、国家体制の危機に直面した段階において、一種の国家主義として結晶したことを意味している。」(P.81)

■日米通商条約(1858年)をめぐる委任原則への背馳(P.82)
①勅許奏請=政務の全面的委任原則を自ら放棄
②違勅調印=「尊王」に違背
「幕府の異例の措置は、「鎖国」の原則を放棄した屈辱的外交姿勢を糊塗し、朝廷を利用して自己の立場の安泰をはかろうとする姑息な手段として、世間ではうけとめられた。」(P.82)
 ⇒ 幕府の外交政策に対する不満・批判の噴出 ⇒ 幕府に尊王と攘夷とを実行させるための運動としての「尊王攘夷運動」の激化
(《討幕運動》へ流れ込む《幕府批判》の出発点)

■被治者の《尊王攘夷》=吉田松陰
「功利を目的としない無償の行為としての忠誠が、国家体制の永続性という観念に支えられることにより、何らかの意味で国家のために役立つものとして意義づけられる。しかも君と民とが一体とされているのであるから、君主に対する忠誠は、同時にその国家を構成する国民に対する奉仕でもある。」(P.84)

「内発的な道徳意識にもとづく個人の主体的な生き方」と「国民的規模での国家の統一性」のlinkage

◎「道徳思想としての尊王攘夷思想」の完成(吉田松蔭←浅見絅斎←山崎闇斎)(P.84)

※一つの近世ナショナリズムの到達点

■二つの尊王攘夷思想

会沢正志斎『新論』=治者のマキャベリズム=objectとして尊王攘夷
吉田松陰     =被治者のナショナリズム=subjectとしての尊王攘夷

次回に続く。

 

尾藤正英「尊王攘夷思想」、岩波講座日本歴史13、近世5(1977)所収
内容目次
一 問題の所在
ニ 尊王攘夷思想の源流
 1 中国思想との関係
 2 前期における二つの類型
三 朝幕関係の推移と中期の思想的動向
四 尊王論による幕府批判と幕府の対応
五 尊王攘夷思想の成立と展開

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