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2014年2月25日 (火)

沈黙、その雄弁なるもの

 我々がペンをとって何かを書くということは、言葉を開拓して行くということと同じ意味をもつ。この開拓によって自己というものが形成されて行くのである。言葉の不自由な性質そのものが言葉を開拓する原動力となるのだ。こうした性格が逆に幾たびも考えさせ、迷わせ、あるいは邂逅をうながすといってもいい。

つまり言葉というものに翻弄される自分自身を見出すということが、読書日記をつける一つの利益なのだ。さまざまな言葉に翻弄されながら、そしてその極限に見出すものは何かといえば、あらゆる種類の言葉を組み合わせてもなお表現することのできない「沈黙」というものだ。これはだれでも日常経験することで、たとえばある本を読んで非常に感動したとき、あるいは思い惑うたとき、どんな現象が起こるか。まず言葉を失っている自分自身を見出すであろう。心の中であれこれと思い巡らしてみるが、さて口に出そうとしたり、自分でペンをとって表そうとすると、どう表現していいかわからなくなることがある。たちまち言葉に窮して沈黙せざるをえなくなる。真の感動は必ずこういう現象を起こすもので、ここに生ずる沈黙状態を私は重視したいのだ。なぜならいま述べたような意味で言葉を失うということは、反面からいうと心の充実を意味するからである。言おうと思っても容易に表現しきれない、そこに人間の心の真実が芽生える。しかもそういう真実ほど人に告げたい、あるいは表現してみたいという欲望を起こさせる。こうした苦しみ、つまり言葉の障害と格闘し、開拓し、この苦闘の中に人間の精神が形成されるのである。
亀井勝一郎『読書論』旺文社文庫1968年 、pp.73-74


また、コミュニケーションという言葉を用いて論じられる領域では、大前提として、人の意思は伝わらないより伝わるほうがよい、しかもより早く、広く伝わる方がよいという善意の考え方があると思われるが、私は人間というものにもう少し別の暗闇があることの方を大切に思っているので、コミュニケーションというピカピカした言葉にはなじめない。コミュニケーションは訳せば「伝達」とか「通信」という意味だが、人間の気持というものはそんなに簡単に伝わるものではないという、われわれが体験的に知っている事実は、なかなか大切な問題を示しているのではないだろうか。最も相手に伝えたい気持は、最も言葉にしにくい微妙な複合体なので、大事なことほど簡単に伝わりにくいものだということが一般的に言える。さらにこれを押して言えば、そんなに簡単に人の気持を伝えようとしないほうがいいとさえ言えるのではないか。誤解の余地が常にあることの方が、人間であるという条件に対しては忠実な生き方だという気がする。そこから生じる悲しみや憤りも含めて、そういう気がする。
大岡信『ことばの力』花神社(1987年) 、pp.23-24

〔参照〕芭蕉はかっこいい

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