小倉紀蔵『新しい論語』ちくま新書(2013年12月)
本書帯にこうある。
東アジア思想の古層を探求する
通説を覆す
画期的新解釈
う~む。確かに画期的解釈。そして、著者の議論の前提である、
『論語』は「第三の生命」論の書である
を一旦了承するなら、本書の議論は『論語』解釈として一貫している、と言ってよい。
したがって問題は、孔子の仁は「第三の生命」のこと、であり、『論語』は「第三の生命」論の書である、という著者の議論の出発点の妥当性ということになるだろう。
ある意味突拍子もない議論なのだが、一つの妥当な論点なのではないか、と思う。ならば、著者の議論に折伏されたのか、というと実はそうでもない。
本書P.7にこうある。
この本では、これまでの中国・朝鮮・日本における解釈と異なる完全に新しい孔子理解を試みる。
その基本姿勢は、後代の解釈による孔子ではなく、孔子その人の世界観に肉薄することである。
しかし、この言葉を眼にして私がすぐ想起したのは、伊藤仁齋と荻生徂徠である。何故なら、彼らも全く同じ趣旨のことを300年前に宣言しているから。
また、仁齋の「愛としての仁」、徂徠のいわゆる「気質不変化説」に基づく弟子教育や詩作の奨励、などは著者の言う「第三の生命論」的な議論として無理なく理解できる。
本書第七章3「日本では?」(pp.247-259)で、日本思想史における『論語』解釈を簡略に回顧しているが、古義学(仁齋)、古文辞学(徂徠)ともに完全にスルーしているのはいささか不自然なことと思わざるを得ない。その重要性、後世への知的影響力からして列島の儒家思想史において(大きく列島知性史においてさえ)、賛成反対を問わず彼等の議論に触れないわけには普通いかない。新書版とはいえ、中江藤樹や石田梅岩に著者が数頁を費やしているのに比較するとかなり違和感がある。
「太陽の下、新しいものは何ひとつない。」『聖書-新共同訳-』(日本聖書協会 1993 p.1034)
自説の先行者(反自説でも)へのリスペクトがない、を言われても致し方ないのではなかろうか。
三読に値する画期的書である。が、奇怪な疑念が残る。
小倉紀蔵『新しい論語』ちくま新書(2013年12月)
第1章 東アジアの二つの生命観
第2章 孔子とは誰か
第3章 仁とは何か
第4章 君子と小人
第5章 孔子の世界観
第6章 孔子の方法論
第7章 孔子の危機
第8章 第三の生命
※関連弊ブログ記事
徳川朱子学はどこに消えたか
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コメント
小倉氏の本は『韓国人のしくみ』から読み始めましたが、分かりやすく歯切れがいいので「こんなにわかってしまっていいのか」とかえって首をかしげるほどです。この本で扱われている「第三の生命」も憧れるに足る理想と思います。しかし「論語を理解するのに最も適しているのは日本人」といわれると「新しい国学か」と思ってしまいます。「日本賛美・自画自賛アレルギー」が発症してしまったもので…
さて、先月24日の朝日新聞オピニオンは『日韓「愛国」の圧力』で、小倉紀蔵・趙景達両氏が愛国と朱子学の呪縛について語っているのですが、これだけ読んで朱子学がどんなものか理解できる人はいないと思います。人を議論好きにする思想なのか、愛国心で人を縛る国家統制のノウハウなのか。趙氏は家族への孝が国家への忠より優先されると述べ、小倉氏は「『愛国』の朱子学的呪縛がピークを迎えたのが第二次大戦の敗戦直前」という、『朱子学化する日本近代』を読んでいない人がビックリするようなことを述べています。実は日本の朱子学は明治維新の過程で「教育勅語」などで骨抜きにされ、なにかある普遍的な価値観に基づいてランキングして序列づけするという枠組みが形を変えて我々を支配している、ということを説明しなくてはならないのですがそれには倍の紙面が必要になるでしょう。
「朱子学」の説明にも両者に食い違いがあるのですが、河野談話が果たして韓国に謝罪したことになっているのかという疑問もあります。小倉氏は前に別の本で11世紀的な「理」に替わって基本的人権と平和憲法でもよいが、それは日本には新しい「理」として根付かなかった、と他人事のように述べていますが、儒教の研究をしている人に戦後民主主義的な価値観を期待する方が間違っているのでしょうか。
ところで寛政異学の禁によって江戸の儒学は進歩が止まってしまったかのように言われることがありますが実際はどうなのでしょうか。朱子学が庶民にも浸透していった時代ですので当時の日本人は今より議論好きだったのではないかと思います。朱子学と幕末維新に関する資料などを紹介して頂けるとありがたいです。
投稿: りくにす | 2014年11月 8日 (土) 00時38分