読書における刺身とつま
ひとが何か文字や記号を書き連ねて、何かの媒体(紙でも、HDDにでも)に記録するという場合、必ず「誰か」に宛てて「なにか」書いているのである。
こう書くと、反論される向きもあるかもしれない。日記や備忘録はどうするのか、と。それでもこの議論は成り立つ。日記や備忘録は、明日の自分という他者宛のメッセージであると解釈できるから。
今日の自分と明日の自分は全く同じとは言えない。なにしろそれを積み重ねてウン十年経てば、明らかに肉体は変形し、顔に皺が増え、髪は白く(薄く?)なっている。数十年間で異なっているなら、一日の積み重ねが数十年なのだから、ほんの一日でも少しづつ異なる自分になっているはずだ。したがって、たとえ全くプライベートな日記やメモ帳でも、《他者》宛てのメッセージと言ってよい。
少し、話題がずれた。ま、とにかく、何がしかの文字を書き連ねることは「他者」宛てのメッセージであるとする。本などに書かれた文章(文字列)などはその典型だろう。問題はその中身である。
その「誰か」宛ての「何か」であるが、その「何か」の中には、著者や筆者の伝えたいメッセージと、それを受け入れてもらいたいが為に書く、論拠や証拠、事例などがあるはずだ。
著者や筆者が他者に伝えたいと思い、他者にアクセプトしてもらいたいと願うこと、それが主題だ。その目的のために書く周辺的なこと、これが論拠や根拠、具体例であろう。
すると、主題が《刺身》だとすると、それ以外が刺身の《つま》ということになる。読書で肝心なのは、文中の何が《刺身》でどこが《つま》なのかを見分けることだといえるだろう。ただし、書き手における《刺身》と《つま》が読み手にとっても同時に《刺身》と《つま》である保障は、残念ながらない。
私にとり卑近な例でいえば、Max Weberの一連の著作などは、その膨大な註が私には興味深いことが度々であり、おそらくMax Weberの著作物において著者本人の意図した《刺身》と《つま》は、私が受容する《刺身》と《つま》とは異なる可能性が高い。
また、古典などというものは、何百年、何千年とその《刺身》と《つま》の区分が唱えられてきて、提唱者ごとに少しずつ異なっているもののことだろう。
私が秘かに自戒するのは、まず著作者の《刺身》と《つま》を見分けたうえで、己の《刺身》と《つま》に重点をずらす、という読書法であるべきだな、ということ。結構、我流(思い込み)で《刺身》と《つま》を自分の頭にインプットしている本もありそうだ、と思い当たる節も少なくないので。
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