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2014年4月21日 (月)

「わかる」ことと「できる」こと

小学校の算数。中学・高校での数学。これを手がかりに科学哲学(風)の議論をしてみたい。

この科目が得意だった人もいれば、不得意だった方もおられるだろう。後者の中には「二度と見たくもない」ぐらいの反応をされる向きもあるかもしれない。そこは少し我慢して議論に付き合って頂ければ、多少は積年の恨みを晴らせるかも知れない、と思う。

※1 関連リンク
「わかる・できる」マトリックス(1)
「わかる・できる」マトリックス(2)

「わかる・できる」マトリックス(3)

※2 下記記事には、matrix ではなく、Vénn dìagramで表示してみました。少し、わかりやすくなったかも知れません。
「できる can do 」とは「思い出す recall」こと: 本に溺れたい

さて、数学の基本は《計算》だ。数学が「できる」子どもは、大抵《計算》が速く、正確だ。だから本人も数学が「できる」と(内心は)思っている。反対に、「できない」子どもは、おおよそ《計算》が遅く、間違えがちである。この差はどこからくるのか。

子どもには相対的に《頭の回転》の速い子と遅い子がいるだろう。では前者が数学が「できる」子で後者が「できない」子か、というとそうでもない。反対に頭の回転の速い子で数学が苦手になるケースもあると思われる。

数学(算数)の授業を考えてみる。例えば、小5で《分数の計算》を習う。中2で文字式の加減乗除、中3で《平方根》等を学ぶ。いずれも初めは取っ付きにくい。そこで、初めて習うことに関しては、《頭の回転》の速い子は当然《わかる》のが速いだろう。《頭の回転》の遅い子はその逆になりがちだ。ならば、それはそのまま、算数、数学の出来・不出来に直結するか。

ここに落とし穴があることが多い。というのも、《わかる》子は問題演習で手を抜きがちになる危険がある。なぜなら、《わかる》から《解ける(=できる)》と速断する可能性があるからである。逆に、《わからな》くても《あきらめない》子なら〔ここが結構大事〕、問題演習を《解ける(=できる)》までやるだろう。結果的に問題を解く量は、《頭の回転》の速い子は相対的に少なくなり、《頭の回転》の遅い子は多くなることになる。

こういうケースだと、往々にして、中期的に、《頭の回転》の速い子は数学(算数)が《できな》くなり、《頭の回転》の遅い子が数学(算数)が《できる》ようになる。

これは数学(算数)という学科の性質に起因する。少なくとも数学は世事と関係なく構成することができる。「三角比」なら土地の測量とか関係付けができるが、中1の正負の数の計算でさえ、<負の数>と<負の数>の積が<正の数>になることを、この世の具体物と対応させることは難しい。

つまり、数学にあるのは<形式>のみで、<中身>は存在しないと考えられる。換言すれば、数学の世界は、人間の<約束事>で成り立っている、といえる。<負の数>と<負の数>の積が<正の数>となるのは、それが<正しい>からではなくて、そのように<約束>するからである。 これは、日本では車両は左側通行、米国では右側通行という約束(=法律)になっていて、どちらが<正しい>のかとは関係ないのと等価だ。

※より正確に言えば、ある数に<負の数>を乗するということは、その数の数直線上の向きを逆にすることと約束する。この約束を承認すれば、数直線上では右が正の方向、左が負の方向という約束だから、右向きの<正の数>に<負の数>を乗するなら、左向きにするから<負>の方向に整数倍すればよいし、左向きの<負の数>に<負の数>を乗するなら、逆の右向きの<正>の方向へ整数倍することになるのは当り前となる。実は符号がつくとスカラー量の世界からベクトル量の世界に飛躍していることになる。だから実は難しい。

したがって、すべてが<約束事>で成り立っている数学では、その約束事を守れば、唯一の<解>に<誰でも>たどり着くことになる。困難なのは、目指す唯一の<解>にたどり着くには、そのプロセスで一つたりとも<約束>違反があってはならない、という点だ。

どれほど長く面倒なプロセスでも決して間違わない。これが《できる》ようになるには、繰り返し練習し、眼をつむっても《できる》まで、すなわち《頭》ではなく、《身体》的に《できる》までやる<根性>が必要となる。

何のことはない、これは、スポーツや楽器演奏と同じ類のものだ。テクニックを身に付けるには、《できる》ようになるまで練習するしか方法がない、という意味で。だからこそ、数学(算数)の世界では《わかる》ことが《できる》ことを保証しないことになる。

さらに言えば、数学(算数)の世界では、《わか》らなくても、《できる》ようになることが往々にしてある。スポーツの技や楽器演奏のテクニックが基本的には《見よう見まね》で繰り返しているうちに《できる》ようになるのと同じで、<なぜ>そうなるのかは不明だが、とにかく解き方を<まね>して類題をどんどん解けば、大抵解法テクニックが身に付き、類題が<解ける>ようになる。その経験値が累積してくると、そのうち「な~んだ、そういうことだったのかぁ」と解法の意味がわかるときが逆に来る。

※二次方程式に出てくる《平方完成》は、高校数学でもモノを言うかなり重要なテクニックだ。これを《わか》ろうとすると大抵皆《わから》なくなる。テクニックと割り切って、まずは《できる》ようにするほうが得策。そのうち《わかる》ときが来る。

スポーツ、音楽、数学のようにテクにニックがものを言い、小さな積み木を根気よく積み重ねなければ、高みにたどり着けない世界では、《わかる》より《できる》ようになることが重要だ。一方で、《できる》かどうかとうよりも、《わかる》かどうかを問われる世界もあるだろう。その点は次の考察の機会にゆずる。最期に私の得意なマトリックスを掲げてこの記事を閉じよう。

  できない できる
わからない A D
わかる B C

※3 「暗黙知」「身体知」は、さしずめ、上図 D 領域ということになるだろう。「形式知」は言語化されることで、誰でもアクセス可能(わかる)「知」といえるので、ひとまず、上図 B 領域だろうか。

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