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2014年8月18日 (月)

社会秩序の崩壊と個人の救済

故尾藤正英氏の新著にこうある。

南北朝の対立を生んだ十四世紀の日本の社会は、古代以来の律令制国家ならびにその変容としての荘園制を基盤とした国家の体制から、やがて十七世紀に入って完成される近世の新しい統一国家の体制へと移行する、過渡期の激動の時代の始まりの段階に当っていた。まもなく十五世紀後半には、応仁の乱を契機として、全国的な動乱の時代としての戦国時代を迎えることとなる。このように不安定な政治的・社会的な状況のもとでは、既成の国家的秩序を支えていた思想の権威は失われ、それに代わるものとして、人々は何らかの超越的な権威を求め、それを乱世を生きぬくための心の依りどころとしようとした。
尾藤正英『日本の国家主義-「国体」思想の形成』2014年5月、岩波書店 、p.59

戦後日本の知的風土においては、戦中期の苦い記憶、例えば相互監視社会的な閉塞感、本来公共的(public)な言論空間の官製化(official)、等のため、国家や地域社会レベルの《秩序》を嫌悪する雰囲気が蔓延した。そのため、「自由」という語は無条件で肯定的な語感を有するものとして氾濫した。

しかし、慎重に考えれば、《秩序》の対義語は「無秩序」であり、「無秩序」と「自由」は本来関係が無い。前者は個人を包含する多くの他者との位相や国家的・地域的な実効的統治の有無と連接し、後者は個人の身体的、心的(あるいは霊的)行為の選択可能な機会の有無と関連する。

ところが、「自由・狼藉・乱妨」という中世以来の伝統的な語感を蔵したまま、liberty/freedom/liberté の訳語として「自由」なる近代日本語が定着する捩れた経緯もあり、「自由」は実質的に「無秩序」「無規制」「無法」という共通理解で使用されるに至る。

こうなると、国家的・地域社会的秩序が崩壊しているアナーキーな事態が「好もしく」なり、それがモダンな「自由」をさえ示唆するかの如きになる。このため、義務教育を経た日本人の「好きな」歴史時代といえば、「幕末維新」であり、「戦国」となる。なぜなら、そこには「自由」が溢れているからだ。

しかしながら、公法的秩序が崩壊し、実効支配する権力が存在しない国家・社会で、人々が「自由」であり続けられる訳がない。

応仁の乱以後、一世紀を超える《内戦》である「戦国」時代に関しては、下記の書籍表紙をご覧頂きたい。大坂夏の陣の屏風絵であるが、なんと軽卒たちは戦闘ではなく追剥(おいはぎ)と奴隷狩りに夢中である。

また、デカルト、ニュートンの科学革命の時代であるはずの、西欧の十七世紀が如何に凄惨な「殺戮の世紀」であったかは、その生き証人である、カロのエッチングを見て欲しい。

ジャック・カロ | 『戦争の悲惨(大)』:農民たちの復讐 | 収蔵作品 | 国立西洋美術館
ジャック・カロ | 『戦争の悲惨(小)』:農民たちの復讐 | 収蔵作品 | 国立西洋美術館
カロの銅版画にみる宗教政治の惨禍 - Waseda University Library

人々は当てにできる公権力を失い、自力救済のため武装せざるを得ない。しかし、暴力と流血と飢餓と死体が日常化する中で人は精神の平衡を失いかねない。武装によって身体は自力救済可能でも、魂は救済できない。したがって、此岸(人間的秩序)を越えた、彼岸の権威・力を希求することになる。これが戦国期に隆盛を誇った一向一揆や法華一揆の背景であり、西欧十七世紀が宗教改革の時代でもあった理由である。

ここで、本日の余剰リソース(時間、元気)が涸渇したため、続編とする。

〔参照〕
徳川期における脱呪術化(Entzauberung = Demagicalization in Tokugawa Japan)


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