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2014年9月30日 (火)

情報化社会としての徳川十九世紀

化政期(一八一〇、二〇年代)から天保期(一八三〇年代)には、実質上、大衆社会状況を呈していた列島社会は、徳川のレジーム(徳川氏一姓支配)と齟齬をきたし始めていた。

■民を関与させる政治
 既に、民はその力量を蓄え、もの言う人々として、公儀、藩機構への上書や、それらからの諮問に答えるかたちで、積極的に産業政策に関して献策し、それがかなりの程度、当局に採用され、実施されていた。

■「学び」を通じた身分の溶解
 また、全国的に、庶民層を主とする文芸のネットワークの結節点として、俳諧結社や漢詩結社が存在し、いわゆる俳壇や詩壇が形成されていた。その俳諧、漢詩結社と重なり合いながら、「学び」のネットワークとして、三都をはじめ、各地方にそれぞれ特色のある私塾が活動し、出身地域や身分を超えた好学、志学の人々が参集していた。また、藩機構の一部としての藩校、学問所、郷学も普及し、文久・慶応年間には庶民層を受け入れる事例が増加する。庶民出身の父祖が郷士株を買うことで足軽身分となっていた中江兆民が土佐藩校致道館で学ぶことができるようになったのもそのような機運の一つである。

■「学び」のテクノロジーと「公論」
こういったもろもろの教育機関にはほぼ共通するメソッドがあった。徂徠学派を起源とする「会読」がそれである。この処士横議を可能とするゼミナール形式の学習法が全国的に普及していたため、それらの塾の存在が青年知識人層に「公論」形成を促し始めていたし、塾出身者間の人的ネットワークも地域、身分を超えて張り巡らされるようになった。

■「世論」の誕生
 この多様な人的ネットワークは、人の交流を促すだけでなく、その経路には膨大な情報も流れ、その結果として幕末にかけて全国で「風説留」というマスメディアの代替物が書き留められた。その質・量・伝播速度からして、徳川公儀の情報統制策を実質的に骨抜きにしていた。

■「公論」と「世論」
 こうして、十九世紀中葉おいては、言語によって知的に武装した武士層(Educated Class)において「公論」が、また「風説留」等によって情報蓄積していた庶民層には「世論」がそれぞれ形成され、幕末の政治動向に重大な影響を与える。その一方で、全国各地の村方騒動の結果、村役人層の投票(入札)による選出が各地で見られるようになる。これらを実質的にデモクラシーの萌芽と見なさないのは難しい。

■十九世紀の列島史
 したがって、五箇条の誓文の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」を、単に維新政権のリップサービスとみなすのではなく、徳川と明治をつなぐ結節点、「去年今年貫く棒の如きもの」(虚子)とすることで、十九世紀の列島史全体を、「民に関与させる統治」と「民が関与する政治」との対抗関係から展望可能となるだろう。

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