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2014年9月15日 (月)

徳川社会における「想像された共同体」(1)

■主権国家
 近代主権国家は、通常、次の三条件を兼ね備えている。

1)固有の領土
2)固有の人口
3)対外的主権(領域内を支配する単一権力)

 しかし、注意すべきは、この三要件が既に存在している近代主権国家を外側から観察した場合のものであることだ。西欧近世史に鑑みて、これを成立の時系列から検討すれば、以下のようになるだろう。

step1 主権の成立(絶対王政の成立→政治革命→市民政府)
step2 領土の確定
step3 人口の確定
step4 人口の「国民化」

 西欧近代主権国家群、すなわち西欧列強が近代史において無類の強さを発揮できたのは、人口が「国民化」し、戦争や工業化といった国家規模の活動に、その国家に属する数千万規模の人口を「動員」できたことに負う。しかし、これだけの規模の人口を「動員」するには、仮に絶対王政の絶対権力によるものであったとしても、「強制」のみでは不可能であった。そこには、人口の「同意」と積極的「参加」が調達されなければならない。それが、step4の人口の「国民化」であり、換言すれば、人口側になんらかの共同体が「想像され」る過程が必要だということを意味する。

 明治国家が、その発足後、高々30数年以内に、日清(1894)、日露(1904)という徴兵制を前提とした大規模な国民戦争を矢継ぎ早に展開できたのも、「国民」の動員が可能だったからである。西欧列強が二百年ほどかけて達成した「国民」動員を、何ゆえ明治国家が数十年で成し遂げられたのか。それは、徳川期に実質的な「忍び寄る国民化」が進行していたからであった。その成熟の一翼を担ったのが化政「国民」文化だったわけだが、徳川思想史の流れの面からも検証を試みよう。

■国学
 国学は、契沖(1640-1701・牢人出身の真言僧)の厳密で独創的な『万葉代匠記』(徳川光圀からの依頼)から出発し、荷田春満(1669-1736・京の神官の出)、『万葉考』『国意考』の賀茂真淵(1697-1769・浜松の神官の出)、そして古事記研究の本居宣長(1730-1801・伊勢松阪の商家の出、小児科医)によって大成された。19世紀には異端の平田篤胤(1776-1843、秋田の武家の出)が現われ、独自の体系を作り、幕末の思想運動に影響を与えた。

 国学の大きな特徴は、それまで公家社会の秘伝のお家芸とされていた古典に関する学知が批判に晒された後、公開性と自由を獲得することで、一つの古典学として内容としても方法論としても著しく発達したことである。換言すれば、宮廷文化に属していたものが、平民の文化に裾野を拡大したということだ。それには、徳川期に入ってから古典テキストの出版が盛んになることが大きく貢献している。その後この古典テキスト類は、共同体が「想像される」ための資源として、国学者やナショナリストたちに活用されることになる。

 国学は、古典に関する学問であるほかに、日本人の生き方や社会のあり方についての思想運動という性格に特徴がある。これは特に、列島の古代に民族精神の源泉を求めるものとして、19世紀半ば、幕末の尊王論と結びつき著しくイデオロギー化する。

■西欧の「国学」
 しかし、「国民」や「民族」が近代に想像ないし創造される際、古代や民俗にある種の国民精神が求められるのはなにも大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)だけではない。西欧においても、童話の採集で有名なグリム兄弟(1785,6-1863,59)のゲルマン文献学(比較言語学、ゲルマン法の資料編纂や研究、神話学)などの活動も、神聖ローマ帝国の領邦君主国家ドイツへの解体と期を一にしている。

■本居宣長
 本居宣長は、松坂の豪商の出だが、商売は嫌いで、結局、店を処分し、その資産400両(1両=6万円なら2400万円相当、1両=10万円なら4000万円相当)で利子生活を送りながら、医者および学者修行をしに京に上り、儒学、とくに徂徠学と小児科学を学んでいる。

 宣長は、普遍的学であることを自ら誇る儒学が、結局外国の学であることを理由に、秋津洲においては当てはまらないとする。そして反対概念を打ち出す。「普遍」の対義語は、他の「普遍」ではなく、「特殊」である。つまり、普遍という概念は実在するものではなく、実在するのは個々の事実や具体的なあり方なのだ、いうことになる。この、いわば西欧中世の「普遍論争」にも似た手法で、儒学に対するイデオロギー批判を展開し、中国(世界の中心にある国)は、中国ではなく、唐(から)であり、漢意(からごころ)なのだという言説を構築する。
続く

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コメント

りくにす さん

どうも。
徳川期の朝鮮通信使は全部で12回あります。ご指摘のように、松平定信の「易地聘礼」策のため、22代正祖により拒否されますが、文化八年(1811)に23代純祖のとき最後の12回目の通信使が対馬において実現しています。その後すったもんだがあり、結局、公儀権力崩壊を迎えました。

そもそも新井白石からして、諸式の簡素化や「日本国大君」→「日本国王殿下」への《名義変更》をしています。日本列島における朝鮮国家の劣等視は、豊臣政権の《朝鮮戦争》からあり、公儀権力の通信使復活は和平関係回復の象徴だったのですが、それでも半島の国家を《文弱》と見る視線は、列島の武家政権には受継がれています。

結局、(これも新井白石ですが)彼の『采覧異言』に、オランダ人は《中華》ではなく《支那 china シーナ》と呼ぶとあるように、《中華》の《普遍→特殊》化が徳川中期後期を通じて、着々と進行していて、その《支那 china シーナ》に事大主義でくっついている半島国家も、自動的に格下げとなることになるわけです。

大島友之允や木戸孝允の「無礼」発言は知りませんでしたが、大島は元々が対馬宗家の「改革派」として若君と組んで「守旧派」を追い落とし、対馬藩家老に納まった口で、そこから幕末明治を泳ぎきった政治家です。したがって朝鮮問題の専門家であり、それが故にかえって対朝鮮強硬派として振舞う政治的理由があったように思えます。また、木戸は朝鮮をはじめとする密貿易(抜荷)で荒稼ぎしていた長州毛利家の「改革派」頭領ですから、大島と同様な政治的必要性も否定できないと思われます。

「靖国史観」の人々には、「皇国」を汚すTPPと同様に、「皇国」をその「史上唯一の敗戦」で辱めた政軍における国家指導者たちの《敗戦責任》と問うべきでしょう。当時のパワーエリートで、「皇民」に敗戦の結果責任を明示して謝罪した例を私は知りません。

投稿: renqing | 2014年10月 5日 (日) 23時41分

あくまで雑感ですが、「普遍を特殊に引きずりおろそうとする人」の見本のような人々をみかけますね。
「普遍」の側に「儒学」ではなく「第二次世界大戦後の世界秩序」を代入し、「あれは戦勝国が欧米の価値観を押し付けているのだ」という人たちです。彼らの中にはTPPに反対の人もいます。
「自由貿易」という「普遍」には私も反対なのですが。

靖国神社を支持する人たちともTPP反対で共闘すべきでしょうか。

投稿: りくにす | 2014年9月29日 (月) 20時41分

レスありがとうございます。お返事遅れてすみません。
幕末から明治の日本人はロシアを恐れすぎな気もするのですが、誰もほんとうのことを教えてくれませんので。
八幡和郎氏などは田沼のプロジェクトが継続していたらアラスカなどは日本領になったかも、といいますが、造船などの問題から無理ではないかと思います。
話は変わりますが、将軍家治が死去して代替わりの朝鮮通信使を派遣しよう、となったときに松平定信が通信使を江戸ではなく対馬で接待する、と提案したため朝鮮側が通信使を出すのを拒否してしまいました。この時の王が22代正祖ですが、「イ・サン」などで人気が出てしまったせいかこのことを触れる人を見たことがありません。
のちに大島友之允や木戸孝允が「朝鮮は無礼」と言うのもこのことが尾を引いていたのでしょうか。
気になることを少し書いてみました。申し訳ありませんが、続きます。

投稿: りくにす | 2014年9月29日 (月) 20時29分

りくにす さん

resが遅れました。恐縮です。

徳川期における日露関係の記述に関しては打ってつけの本があります。
小学館・日本の歴史第12巻(2008年)
平川 新『開国への道』
第1章 環太平洋時代の幕開け
第2章 漂流民たちの見た世界
18世紀の後半、北太平洋域は市場争奪のための列強の角逐の場(対清貿易で巨利を稼げる黒貂の毛皮目当て)となりつつあり、そこに帝政ロシアも絡んでいました。それに危機感を持った、仙台藩医工藤平助が『赤蝦夷風説考』を書き上げ、1783年(天明3)に田沼意次に献上します。そこから田沼政権による本格的な蝦夷開発プロジェクトが始動するのですが、1786年(天明6)将軍徳川家治が死去。庇護者を失った田沼は、反田沼勢力による松平定信を担いだ宮廷クーデタにより失脚。いい悪いを別にして、これで近世日本における開国と主権国家化が70年間遅れました。田沼のプロジェクトが継続していれば、最終的には彼の意図を超えて、西欧初期近代と相似の、王権による近世資本主義国家を出現させていた可能性は高いと思います。そこにおいて李朝朝鮮がどう位置づけられるかは、俄かには不明ですが、少なくとも正式な外交関係(「通信」の国)がある国に対して明治政府のような野蛮な振舞いはできなかったと推測されます。

投稿: renqing | 2014年9月22日 (月) 01時18分

どうも国学のマイナス要素にばかり目が行ってしまい素直に頭に入ってこないのです。言い方が乱暴ですが、国学者でも儒学者でも、17世紀も半ばになると日本中心主義になって中国や韓国を侮るようになってきます。軍学者は朝鮮攻めの机上演習を始め、いつのまにかそれがやらなくてはならない課題のようになります。
ここで論じるのは場違いですが、「征韓論」のもうひとつの要素であるロシアは実際のところどの程度脅威だったのでしょう。朝鮮の沿岸にロシア船が出没していたはずですが、18世紀末の朝鮮王朝を描いた『イ・サンの夢見た世界』でもロシアは登場しません(日本も)。実際に脅威だったとして、朝鮮には緩衝地帯になってもらおうという発想になぜならなかったのでしょうか。
偏った内容ですみません。

投稿: りくにす | 2014年9月18日 (木) 16時18分

慶長元和の政権成立期から公家文化が平民に開放されていっていたのですね。もしかすると、吾妻鏡を愛読していた家康の対朝廷戦略指向もあったのでしょうか。朱子学より国学のほうが世間に広がったのは幕藩体制が固まってからと考えていたため意外でした。宣長が一般的にも有名なので、その影響力を過大評価していたかもしれません。ご教授ありがとうございました。

投稿: fk | 2014年9月17日 (水) 01時49分

fk 様、コメントありがとうございます。

コメント中に、
「宣長によって大成された国学が宮廷文化を平民に開放した」
とありますが、若干、私の文意とズレがあります。
京の閉鎖的な貴族文化を結果的に下々へ開放するきっかけを作り出したのは、徳川家康です。五山の僧と林羅山を面前で論争させています。彼の学問好きがさせたものです。
そして徐々にゆっくりと150年ほどかけて高文化がポピュラー化しました。その成果の上に宣長が登場したというのが歴史経過です。また、宣長は徳川中期の徂徠学革命に決定的な影響を受けています。彼もまた時代の子であることに変わりはありません。吉川幸次郎が指摘するように宣長が東アジアにおいて屹立する特異な思想家であることは間違いありませんが、そのことがTokugawa Pop Culture に影響を与えたというよりは、彼の古典研究の文献学的側面の巨大さが権威として庶民の耳に入っていることは確かです。式亭三馬の『浮世風呂』に、庶民の女房同士が賀茂真淵ファンと本居宣長ファンに分かれて会話している場面があります。

投稿: renqing | 2014年9月16日 (火) 13時08分

申し訳ございません。確認せずそのまま送信をしてしまい、前コメントの文意がとれない文になっております。あまりに恥ずかしいので修正いたします。

(正)「宣長によって大成された国学が宮廷文化を平民に開放した。それが「日本」という共同体を想像させる契機となったことは、現代世相にもつながりがありそうです。」

投稿: fk | 2014年9月16日 (火) 01時36分

さっそくお邪魔しております。興味深く読ませていただきました。宣長によって大成された国学が宮廷文化を平民に開放したことが「日本」という共同体を想像させる契機となったことは、現代世相にもつながりがありそうです。[続き]を楽しみにしています。

投稿: fk | 2014年9月16日 (火) 01時27分

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