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2014年10月 5日 (日)

想像された「鎖国」国家

歴史像は創られる、その必要に応じて。

その典型が、例えば、中学校教科書(歴史)に未だに書かれている

江戸幕府の成立と鎖国

と言った表現だろう。では「鎖国」像はどう創られたのか。

■「公儀」から「国家 state」へ

 個人にしろ国家にしろ、己が何者かを意識に上らされるのは、他者との接触の際である。では、「公儀」、すなわち徳川政権が、自らを現代で言うところの国家(state)として意識し始めたのはいつ頃だろうか。

 それは、おそらく18世紀末の寛政期、松平定信政権の時だと思われる。直接の契機は、1792年(寛政4)ロシア使節ラックスマンが根室に来航し、漂流民大黒屋光太夫等の返還と通商を求めたことである。しかし、ロシアの存在、その北方での活動について、すでに仙台藩医工藤平助は1783年(天明3)「赤蝦夷風説考」上下2巻を刊行、田沼意次に献上していたし、また仙台藩士林子平は「三国通覧図説」を1786年(天明6)に公刊、翌1787年(天明7)には「海国兵談」第1巻を自力で出版していた(1)

(1)しかしながら、この二者は、公儀から全く異なる扱いを受けた。工藤平助は、その献策で田沼意次の蝦夷地開発に影響を与えるが、林子平は、1892年(寛政4)5月に在所蟄居を命ぜられ、板木・製本はともに没収されて不遇のうちに翌年病死している。この顕著なコントラストは、発刊された時期が、前者が事実上の学芸の自由を謳歌した田沼時代であり、後者が学芸統制下の松平定信政権だったことに起因する。

 したがって、ロシアの接近を中心とする北方問題は、突然の降ってわいたような事柄ではなかった。しかし、歴代の徳川政権にとりそれがリアルな政治課題になったのはこの1792年(欧州の大国フランスは革命渦中にあった)が初めてであり、外交問題それ自体に緊急事態として直面した権力者も、徳川初期を除けば、松平定信が初めてだったと言えよう。そしてその後、波状的にやってくる西洋諸国との対応が、御公儀=徳川の運命を決することになる。

■「鎖国」、ある伝統の創造

 さて、この招かれざる客の来訪は列島に何をもたらしたのだろうか。それは、事実としての「国家」から、自己認識としての国家(state)への変貌である。

 これを二つの側面から考えてみよう。一つは、公儀(=徳川政権)の自己規定の問題であり、他の一つは、その公儀を眺める視線の問題である。

 前者は、ラックスマンとの交渉の過程において、松平定信がその国書において表明した、<鎖国>が「いにしえより国法」(2)である、という事柄に関連する。

(2)藤田覚『松平定信』中公新書(1993)年 、p.186参照

 では、そんな国法が事実として存在したのだろうか。寛永鎖国令といわれる<国法>の内実は、日本人の海外渡航禁止とポルトガル船の来航禁止のみである。そもそも、東照大権現、すなわち徳川政権の開祖、家康自身が対外交易に熱心だったのは否定しようがない。緻密で前例にうるさい定信がそういうことも調べ上げずに国書を他国の使節に渡すことは考えにくい。つまり、定信自身がある政治的意図のもとに外交文書上においてそれを表明したことになる。いわゆる<鎖国の祖法化>である。元来、政治家として対外交易に消極的だった定信であるため、通商を回避するための名目でもあったろうが、それを対外的に改めて宣言したことが重要といえる。なぜなら、ある行為を歴史や伝統によって根拠付けることそれ自体が、一つの自己認識の表れだからだ。21世紀日本でいえば、「平和憲法」やら「唯一の被爆国」と同じ政治的効果を持つということであろう。

 そして、この徳川政権の宣言が近代主権国家ロシアに示されることによって、対外的には、ある<主権>国家の代表機関による公式声明と受け取られ、徳川政権もその後の外交交渉を通じてそう自己認識していくことになる。

 それでは、もう一つの、公儀を眺める視線、とはどのようなものか。

 これは、「鎖国」という語そのものに関わる。

■「鎖国」小史

 意外ではあるが、「鎖国」なる語を公儀(徳川政権)が公式文書で使った形跡がない。ならば、いったい、いつ誰が「鎖国」と言い出したのか。

 それは、享和元年八月(1801)、長崎の元オランダ通詞、志筑忠雄(しづきただお、1760-1806)である。彼がその訳書において題名を「鎖国論」としたのが嚆矢である。底本は、オランダ商館付き医師ドイツ人ケンペル(1651-1716)が1692年に帰国してのち著した『日本誌』のオランダ語版である。その中の付録第6章(3)が当該の部分となる。

(3)(オランダ語版章題の志筑訳)
 「今の日本人全国を鎖して国民をして国中国外に限らず敢て異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」
(ドイツ語原著者版章題の小堀桂一郎訳)
 「日本帝国に於て本国人には海外渡航が、外国人には入国が禁ぜられ、且つこの国と海彼の世界との交流はすべて禁ぜられているのが極めて妥当なる根拠に出でたるものなることの論証」

 ドイツ人ケンペルは、実は徳川政府の<鎖国>政策の妥当性を上記で支持している。それは、原著者版の表題を読んでも明らかだ。一方、オランダ語版は<鎖国>政策に対して、批判的に訳出されており、志筑の訳文も微妙だが、これが出版されたなら、林子平と似た筆禍を受ける危険性も感じられる。したがって、志筑は生前、印に付さなかった。それにも関わらず、志筑「鎖国論」は、19世紀前半の読み手たちに広範な影響を与えていく。現在、その写本所蔵、閲読を確認できた人々には、太田南畝(蜀山人)、松平定信、滝沢馬琴、伴信友、本多利明、平田篤胤、横井小楠、勝海舟、がいる。刊本になっていないにも関わらず、知識人にこれだけ読まれているということは、その背後に相当数の読者(4)を想定すべきだろう。

(4)これは、知識人の情報交換ネットワークの懐の深さとともに、公にされないはずの為政者への上書や公儀から禁書された著述の類が広く流布するメカニズムがあることを示唆する。恐らく最も大きい経路は貸本屋だと思われる。人から借りた本を書写したものを書本(かきほん)ともいうが、ある程度以上のリテラシーを有する者だと、この書本を貸本屋へ売って生活の足しにした。また、貸本屋もそういう者に書本を作らせたりするケースもあったと考えられる。

 そして、嘉永3年(1850)には、国学者黒沢翁満(くろさわおきなまろ)によって、「異人恐怖伝」と改題されたうえで、ついに出版されたが、あえなく禁書となっている。

■「鎖国論」、二つの読み

 こうして、19世紀前半の徳川日本社会において、広範な影響を与えた志筑「鎖国論」だが、それは大別して、二通りの文脈で受け止められた。一つは、国学者に代表される鎖国賛美論、つまり、異人さえもが絶賛する素晴らしい日本だから、開国は不要である、というものであり、他の一つは、開明派による鎖国批判論、すなわちケンペルの時代から大状況が変化したのであるから、当然、かつて合理性を有した鎖国政策も、今となっては不合理であり、日本は開国へ進むべきだ、とするものである。

 この二つは全く逆方向から徳川政権を批判することになる。もし開国へと歩を進めば、「鎖国」の祖法を犯し日本の国体を洋夷から守る安全保障上の統治能力を疑われ、「鎖国」を維持するなら、日本国の政権を担う合理的、現実的能力を疑われる、というわけである。

■海禁から鎖国へ

 対外交易への強いコントロール、人の内外往来の禁止。こういったことは、東アジア世界では、海禁(策)として認識(5)されてきた。

(5)例えば、新井白石はその随筆「折たく柴の記」(1716年頃)において、明における海禁について触れている。

 したがって、18世紀末以降19世紀前半まで、徳川政権の祖法としての<鎖国>政策も、その広い文脈を持つ海禁政策として認識され、その認識で徳川政権への「鎖国」批判や開国要求へ対峙する。しかしながら、ペリー・ショック以降、開港政策に転換すると、徳川政権内部において「鎖国」を使用しだす。それは,徳川政権自らが、海禁策という東アジア世界の伝統から決別すること、すなわち脱亜へ大きく舵を切ったこと、また同時に、徳川政権批判者たちと共通の対外パースペクティブを持つに至ったことを意味した。これ以後、明治政府となってから攻守ところを変え、一貫して朝鮮へ「開国」を要求することになる。

■公儀の主権者化

 安政元年(1854年)、徳川政権は史上初めて、近代国際法上の条約を結ぶ。日米和親条約(神奈川条約)である。

 そこでは、徳川政権はなんと表記されているか。日本語版条約では、「帝国日本」であり、

英語版条約では、"the Empire of Japan"であった。

ここにおいて、徳川氏は、列島内部の「御公儀」から、対外的に国家を代表する唯一の主権者として欧米列強から認定(6)されたことになり、この対外的承認(7)を通じて、自身、列島の正当な権力を代表する唯一の主権者としての意識を深めるに至る。

(6)欧米列強との外交関係の樹立が、実際上、その当該国の主権国家としての認証と等価であることは、南北戦争中(Civil War)において、1862年9月23日、リンカンが奴隷解放予備宣言をすることで、ヨーロッパ(当座は仏国、最終的には英国)のアメリカ南部連合(Confederate States of America)の独立承認を阻止したことにも現れている。フランス共和国が南部連合の独立を承認することはその後の米国が南北分断国家になっていることを意味し、以降の近代世界史の相貌は全く異なったものとなっていただろうことは想像に難くない。

(7)しかしながら、上記の事態は、近代主権国家体系への、選択の余地なき強制としてもたらされた。新たな国際秩序へのこの不幸な参入(entry)体験は、建前としても主権国家同士の対等な条約締結とは了解されず、欧米列強を「華」とする新たな「華夷秩序」への強制加入の国家体験として記憶されたのではないか。開国後の日本の対外関係は、最強国との華夷関係の構築に全力が注がれた。英国との華夷秩序(日英同盟)しかり、米国との華夷秩序(日米安保体制)しかり。そうして欧米列強との華夷秩序の空白期間が、そのままアジア太平洋戦争を含む時期であったことは象徴的ではなかろうか。

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