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2015年5月 7日 (木)

アリストテレス「詩学」Aristoteles, Peri poietikes (2)

≪3.分析≫
ここからは、ブログ主の研究テーマである「複雑系 Complex Systems」から見た本書の分析。

複雑系の議論で、私が最も注目する論者は塩沢由典である。彼の理論をベースにアリストテレスの Dramaturgie を料理してみる。

人間個人の能力には3種類の限界がある。
塩沢由典『複雑さの帰結』NTT出版(1997年)、PP.32-33参照

①視野の限界
「人間が世界のごく一部分の状況しか把握できないこと」
②合理性の限界
「人間の思考能力・記号操作能力の限界ゆえに、所与の目標にたいして与えられた世界に関する知識の範囲内で最良の解を発見できないこと」
③働きかけの限界
「人間が意識的・無意識的に行いうる行動の効果は限られたものであり、目的を達するまでに繰り返しや多くの人手を要すること」

アリストテレス大先生の言う、

「一定の長さをもち、しかもその長さは容易に全体を記憶することができるもでなければならない。」本書P.40

は、①<視野の限界>に相当するだろう。悲劇では、それは劇中人物の限界であり、観客の限界でもある。「複雑系」という知的枠組でいえば、劇中人物は考察対象の「人間行動」であり、観客は考察主体の学知者である。学知者も同じhuman beingとしての限界は免れないから。

訳者の一人岡道男は解説P.323でこう述べている。

たしかにアリストテレスは、オイディプースのような人物が、本来「不幸に値しない」にもかかわらず不幸におちいることを認めている点に、神(偶然)が入り込むわずかのすき間(悲劇的不安定の世界)を残している(もしすべての出来事がありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こるなら、「不幸に値しない者」が不幸におちいるはずはない)。

ここには一つのカテゴリー・ミステイクがある。

確かに、アリストテレス大先生は、悲劇の結構すべてが緊密に連繋し、劇中の諸行為によって引き起こされるすべての出来事がありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こることを要請する。その一方で、予期に反して、しかも因果関係によって生じる出来事が最も効果的にあそれとあわれみを引き起こす、とも述べている。

アリストテレス大先生は自己撞着しているのだろうか。いやそうではない。それらがいったい「誰の視野」からなのか、を考慮に入れてないことが上記訳者や評者たちの混乱の原因となっている。

ここで、「ありそうな仕方」「必然的な仕方」「予期に反して」「因果関係」等を、さしあたり悲劇作者と劇中人物(および観客)の2つのカテゴリーの視点から検討する。

すると、アリストテレス大先生が言う悲劇の魂であるところの、因果関係や必然性によって堅牢に構成されている筋(ミュートス)は、悲劇全体の緊密な構造であるから、これは悲劇を作成する作者の視野からの整合性、無矛盾性と考えるべきだろう。またこれは、最終的に悲劇を見終わった後の、観客にとっての事後的な完結性でもある。いわば悲劇におけるマクロの因果性だ。

劇中人物のその時々の行為が「ありそうな仕方」で「必然的な仕方」でなされるのは、無論その行為者から見た整合性であり、「予期に反」するのも劇中人物(かつ人物と一体化している観客)の「予期」に反しているから、劇中人物(や観客)が驚くことになる。こちらは、悲劇におけるミクロの因果性と言える。

人間性の3つの限界に立ち返ると、行為者にとり「ありそう」で「必然的」行為であっても、そこから引き起こされる「出来事」が行為者の意図を裏切り、目指す事柄と正反対の結末をもたらしてしまうのは、人間の個人の推論能力に②<合理性の限界>があるからである。これは劇中人物と同じ人間である観客も逃れることはできない。たとえミクロ的、短期的、局所的な合理性、整合性、因果性を十分に考慮に入れたとしても、合理性の限界のためにマクロ的、長期的な合理性、整合性、因果性を図ることは普通の人間には往々困難となる。

だからこそ、悲劇作者は悲劇全体の構造を設計する際、「一定の長さをもち、しかもその長さは容易に全体を記憶することができるもでなければならない。」とアリストテレス大先生は釘を刺した。悲劇作者でさえも《合理性の限界》は免れないし、観客が一編の悲劇を見終わった後、その筋(ミュートス)の全体構造を理解・納得し、そこから感動を受けるためにその適切なサイズが要請されることになるからだ。そうやって、悲劇全体のマクロの因果関係を悲劇作者が細心の注意を払って予め筋(ミュートス)に構造化することに成功するならば、観客は筋(ミュートス)の緊密な完結性を事後的に認知し、あわれみとおそれという深い感銘を受け取ることができることになるわけだ。

人間にとり不合理なのは、神や運命だけではない。《合理性の限界》下にある人間の行為も同様である。それを「あやまち(ハマルティアー)」という。だからこそ、賢いオイディプスでさえ「あやまち(ハマルティアー)」を犯すことになる。合理性の限界のため、結果的に不合理になってしまう行為を選択する存在、それが人間である。

私たちが、今こうであり、それ以外ではない理由。そして、

「よかれと信じたことが、なぜこう喰い違うのか、蕗はどこで間違ったか解らなかった。まっとうに歩いたはずの道が、いつか曲ってそれてゆくのであった。」
芝木好子『湯葉』(1961)

その原因は、人間能力の限界に由来する。我々が二千年間「悲劇」に求め続けているものがあるとすれば、何人たりとも免れ得ないこの人間的事実を開示することなのである。

(1)に戻る 補遺へ続く

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コメント

塩沢由典様

コメントありがとうございます。
塩沢さんの「人間能力の3つの限界」の議論は、哲学でいう「知識論(認識論)」に甚大な影響があると考えます。過去、神の全知全能に比べて、人間能力の矮小さを指摘する議論は幾らでもありましたが、それらは比喩の域を出ず、ではなぜ卑小にならざるを得ないのか、どの程度卑小なのかというメカニズム(機序)を説明したものは皆無でした。塩沢さんの議論はそこに理論的根拠を与えました。しかも、人間個人の能力の限界は、一般に我々が想像するものよりかなり狭いことが1財からn財への拡張の議論で手に取るように理解できます。

したがって、次の議論は、人間個人の能力の局所性にも関わらず、マクロな社会が何ゆえワークするのか、に移ります。そこに、塩沢さんやプラグマティストたち、ブローデルのいう「習慣」の問題が出てきますし、その延長線上に、「習慣」形成のメカニズムとして、関曠野のミメーシス(模倣)、ミードのいう「一般化された他者」の「役割取り入れ」といったことも浮かび上がります。

塩沢さんの新著の書評は、近いうちに載せることにします。

投稿: renqing | 2015年5月 9日 (土) 13時07分

メールで連絡をいただきました。

「本に溺れたい」は、ときどき読んでいます。

アリストテレスの「詩学」を複雑系で考えるなど、わたしの想像の範囲を超えていますが、人間の能力の3つの限界は、複雑系について考えていたとき、ユキュスキュルの「機能環」という考え方にであいまとめたものです。経済学にかぎらず、人間を考えるときヒントになる場面があるのかもしれません。

「複雑系と歴史学」と題した関する記事(2011年8月25日)は、まえによんで記憶しています。あの論文(人はなぜ習慣的に行動するのか)は、だれかがセンター試験(2003年度)の国語の問題に採用してくれたので、いまもいくつもの予備校から、教材に使っていいかという問い合わせがあります。

2013年8月16日の「現状は需要インフレでなくコストインフレである」のご指摘は、慧眼でした。この4月(2015年)に、いろいろな生活必需品の値上げがありました。それでも、石油価格の下落のためインフレ目標が達成されていないと黒田さんはぼやいていますが、2013年8月段階で、コスト・プッシュ・インフレを指摘されたのはすごいことです。わたしはだいぶ遅れて、このことに気づきました。

インフレになれば景気が良くなるというのは、ディマンド・プル・インフレとコスト・プッシュ・インフレの区別もついていない人の思い込みです。ただ、安倍さんが間違った認識をしているのは、経済学が悪いせいです。そこは情状酌量の余地があるところでしょう。

昨年3月に中央大学を(2度目の)定年退職となりました。退職前にと駆け込みで一冊本を編集しました。塩沢由典・有賀裕二編『経済学を再建する』です。この前半「提案編」全5章は、わたしが書いています。複雑系ということばは表面に出していませんが、内容的には『市場の秩序学』以来考えてきたことを(かなり急ぎめに)まとめたものです。『市場の秩序学』と『複雑さの帰結』は、消費者が予算制約下に効用を最大化することへの批判と、最大化行動に代わるものとしての習慣的行動の意義を確認するものでしたが、今度の本は、それを前提として、どういう価格理論/価値論を構築すべきかという観点からまとめてみました。

すべての部分をきとんと考えて書いたものではありませんが、大きな枠組みとしては、これでだいたいわたしの考える経済学は分かってもらえるのではないかと思っています。

このプログは書評を中心にしたものですので、いちど批評・批判の対象に取り上げてくだされば幸いです

投稿: 塩沢由典 | 2015年5月 8日 (金) 19時56分

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