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2015年5月13日 (水)

邯鄲の歩み

今、大文明国である大日本国の最高学府で、知的殺戮が繰り広げられている。
文科省の大馬鹿プロジェクト「スーパーグローバル大学創成支援プログラム」である。それがどれほど野蛮で、Les Misérables(「噫無情」の原題)な事態なのかは、下記のブログ記事をハンカチを握り締めて読んで欲しい。

文科省のスーパー亡国大学化政策 - 代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

その人間の思考力とは、その言語運用能力(聞く・話す・読む・書く)と等価だ。したがって、日本人の思考力の可能性は日本語の可能性と不即不離にある。日本における百年余の目覚しい科学技術の発展は、英語と比肩する日本語の造語力にも起因するとは関曠野の意見だ。付け加えるならば、徳川期後半、蘭学フリークの殿様(蘭癖大名)が出現するほどのブームを引き起こした蘭学を含む洋学運動もこの日本語の柔軟性・多様性・造語力と無関係ではないだろう。そもそも漢字は中国語という全く異なる言語系統の外国語文字なのだ。それを受容し再構成する力がどれほどのものかは沈思すれば了解される。

最後に象徴的な言葉を引用しておこう。

 言語能力は、思考能力と直結しています。日本語という、世界でも稀な複雑で豊かな言語を操れるようになることで、思考も感性も、深く豊かになっていきます。
 ・・・・。
 思考能力が言語能力を規定するのではなく、言語能力が思考能力を規定するのです。そしてその言語能力は、特に幼少期に鍛えられ、その子の大人になってからの「幸せ度」まで大きく左右するのです。
三谷宏治『親と子の「伝える技術」』実務教育出版(2013)、pp.187-8

邯鄲(かんたん)の歩み【邯鄲の歩み】
《昔、燕の青年が邯鄲に歩き方を習いにいったが習得できず、故国の歩き方も忘れてはって帰ったという「荘子」秋水の故事から》むやみに他人のまねをすれば、自分本来のものも忘れて、両方とも失うことのたとえ。
デジタル大辞泉、より

ご参考まで
スーパーグローバル大学創成支援|日本学術振興会

※弊ブログで既にご紹介済みだが、「競争的資金」が研究現場を破壊している実情は、大学当事者の呻き声として下記をご参照あれ。

自滅する生命科学:研究資金配分が誘導する研究コミュニティの崩壊 読書の記録/ウェブリブログ


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コメント

関 様

貴ブログ記事にコメントをお返ししました。
西の生き方は、当時としては止むを得ない面もあったような気がします。

投稿: renqing | 2015年6月 1日 (月) 03時08分

renqingさま

 先日はコメントありがとうございました。
 renqingさんご指摘の、日本語の造語能力の柔軟性、幕末からの洋学運動の果たした役割に関する見解に同意いたします。それらの論点で関係あるかも知れないのですが、以下の記事を続編として書いてみました。
 西周と赤松小三郎の関係についてです。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/1419af5123197a564f01077c19568eaa

投稿: | 2015年5月31日 (日) 13時49分

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