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2015年10月12日 (月)

米原万理『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川書店(2001年)

 「泣き」は直接、人間の情念に働きかけるが、「笑い」は知性を媒介して心を動かす。だから、実は悲劇よりも喜劇のほうが、「泣かせる」よりも「笑わせる」ほうが難しい。

 それはまた、「泣き」と「笑い」における文脈依存度(文化依存度)の違いとしても表出する。知らなくとも「泣」けるが、知らなければ「笑」えない訳だ。

 米原万理の文から醸し出される「笑い」は彼女の知性と深く関連している。ブログ主の偏見からすれば、米原万理は同性から「姉貴」ではなく「兄貴」として慕われた人柄なのだろう。そういう「強さ」が米原の文から感じられる。

 この2002年大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作品は、その米原が異国での少女時代の三名の親友との邂逅と、35年後に再会を果たした顛末を書き留めたエッセイである。

 最初は亡命共産主義活動家を父に持つギリシア人少女。二人目はルーマニア共産党幹部(実はユダヤ系)の娘。三人目は最終的には大統領まで務めた旧ユーゴの外交官の娘である。

 ブログ主が最も楽しめたのは、ギリシア娘のリッツァの話。笑いあり、涙あり、人生の大逆転ありで面白かった。特に再会の場面は爆笑ものだ。また、「これが人生か」と落涙してしてまったのもリッツァの後半生だ。落第生リッツァは遮二無二努力して結局医者となった。しかし、皮肉にも初産の子をダウン症として授かる。その長男を「天使」とまで愛するが、二親がいなくなってからが心配だと目を赤く腫らす。人生とは歓喜であり、受苦でもあることを伝えて余すところがない。

 実は、本書の表題は二人目のルーマニア人の親友アーニャの章から取られているが、ブログ主からするとこの章は苦渋に満ちていて少々読むのが辛かった。虚言癖のアーニャはその嘘で周囲の少女たちを振り回していたが、後年それが自らを騙すことに成り果てているのが何とも言えず苦い結末となっている。特に今のブカレストの悲惨さなどを思うと余計だ。

 最後のボスニア・ムスリムだったことが判明したヤスミンカとの再会も、とりあえず読者をホッとさせるものだった。

 印象に残ったのは、このヤスミンカの章、P.193にある、property(所有)に対するロシア人の考え方だ。米原が通訳業を通じて知った亡命ロシア人芸術家たちが吐露する悲哀を、ヤスミンカのエピソードに関連して回想する箇所。

「・・・。西側では才能は個人の持ち物なのよ。ロシアでは皆の宝なのに。・・・。」

 ロシアで共産主義が受容された理由の一端が見えた気がした。ちなみにドストエフスキーは若き頃、バリバリのフーリエ主義者(フランス初期社会主義)だった。ロシア人が西欧資本主義と異なる道を歩んだ理由は、マルクス主義に改宗したから、などというのは、歴史に対する知性と感受性の貧困を示すに過ぎない。

 高級幹部たちの子弟の実態から垣間見える旧共産主義国家の「闇」と、そこに嘗て存在したある種の「良さ」にも光をあてていて、読物としても成功しているし、われわれ現代日本人にはなかなかピンと来ない旧東欧圏の現代史を知るよすがともなっている。読まれていない方には一読をすすめる。

米原万理『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川書店(2001年)

目次
リッツァの夢見た青空(ギリシャ)
嘘つきアーニャの真っ赤な真実(ルーマニア)
白い都のヤスミンカ(旧ユーゴスラビア)

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