現実としての「一揆」と思想としての「社会契約」
ふと、頭をよぎったことがある。政治思想史のテキスト類には、西欧初期近代の部に必ず、「社会契約」論の項があり、思想家の肖像画や代表的著作は図版で載る。
しかし、そういった政治思想史のテキスト類で、日本中近世の部に「一揆」が触れられることはない。一方、西欧史テキストの、初期近代の部で「社会契約論」が思想家の名とともに記述されることはあっても、その「社会契約」書そのものは図版で見ることは決してない。一方、高校の日本史教科書でも、「一揆」書状の現物写真は「唐傘連判状」などが堂々と掲載されている。
史料1 『福井県史』通史編4 近世二
写真94 若猪野村傘連判状
史料2「歴史・教育・旅・グルメ」さんの、「歴史教材」表中の、
「100 申合(唐傘連判状)1763年複製自家製」
一体、これはどういうことか。それは単に日本中近世の「一揆」は現実で、西欧初期近代の「社会契約」はフィクションだ、ということを示すに過ぎないのではないか。いったい我々は誰の眼を借りて自分たちを見ているのだろうか、と。
※(20180626)下記、弊ブログ記事参照
社会契約モデルとしての「一揆」
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コメント
薩長公英陰謀論者 様
実に、8か月ぶりの応答となります。
1)「速水融氏が、1830年の天保の改革から1880年の松方デフレまでの50年間は人口増加とインフレーションの時期であったと指摘」
恐縮です。速水氏も非常に著作物の多い方なので、私も心当たりがありません。
2)貴アイデアの、日本史における50年周期説ですが、経済学にも、技術革新の変化に基づく、コンドラチェフ循環という50年周期説があります。
それと比較しますと、貴アイデアにおいて、50年を周期とさせるその動因(driving force)が何か、いま一つ不鮮明のように感じます。
技術革新なのか、人口動態なのか、またはその両方を駆動する第三の有力な動因があるのか。事実認識としてそういえないこともないが、理論枠組みとしては少し弱い、と思います。
3)また、「1880年から1930年がデフレーションと人口減少の時代」とのご指摘ですが、この50年間でみると一貫して人口は増加していたと思われますので、この点事実誤認があるように考えます。
以上、遅れた上に、雑駁なもので恐縮ですが、応答とさせて頂きます。
投稿: renqing | 2016年8月17日 (水) 15時27分
先の投稿に抜粋引用いたしましたスピーチのソースURLを付記すべきでした。お詫びします。
http://freepaperdictionary.com/article/back-to-the-classics-vo01/
投稿: 薩長公英陰謀論者 | 2015年12月26日 (土) 19時38分
renqing さま、不意に思いが溢れてきまして、おそらく一揆の本質がそうであったであろう、ひとりの(ひとりひとりの)人間の存在の確証、それが今は、このように・・・
SEALDsの福田和香子さんの10月17日のスピーチからの勝手な抜粋をお許しください:
・・・歴史の教科書の片隅にも載らないような誰かが、そんな多くの誰かがずっと、ならし続けてきたその道の上を私は今こうして歩くことができます。・・・その道をならし続けることは決して容易ではないでしょう。しかし私はその役目を喜んで引き受けることができます。なぜなら私は思考することを放棄しないからです。・・・
希望の光を未だ見ぬ絶望の世代は、いつだって前を向くことに長けている。・・・明かりの火種はまたひとつ、時の政権とその暴挙を許した社会によって踏みつぶされてしまったのだけれど、私はもうその暗さを怖れる必要がないということも知っています。・・・それは絶望の世代の何よりの強さに違いないでしょう。
・・・英雄になる必要はありません。知性への敬意を捨てず、想像し思考することを放棄せず、そうして前を向き続けること。
☆☆☆
はるかに年齢のはなれた若もののことばに感動しすぎでしょうか。自分がこの年頃であったころを思い出すと、恥ずかしさと悔恨にみたされます。
投稿: 薩長公英陰謀論者 | 2015年12月26日 (土) 19時24分
renqing さま、この「一揆」に関する御記事にコメント投稿させていただきましたのは、前記の歴史的展開が始まる戦国前期は、自治を実現した農民を核とする下からの一揆の時代であり、これが地侍層の勢力増強にからめとられ、戦国大名による制圧、最終的には織田信長による殲滅に直面する、ということになり、しかし近世末期には一揆が復活して世の中(歴史)を動かす運動となったあと、長薩の下層武士の権力獲得の動きにからめとられた、という「一揆史観」が可能であろうかと思いついたところからです。
現代のネオリベラリズムと表裏一体となったネオコン支配に対する「一揆」とはどのように・・・と。これが当面の最大の関心であるのですけれど。
投稿: 薩長公英陰謀論者 | 2015年12月26日 (土) 18時59分
renqing さま、おそらくご多忙をきわめておられるところ師走のおわりの時期にお邪魔することをお詫びします。「人口歴史学」に関連して、もしやご教示をいただくことができるかと思いまして。ご親切にあまえますこと恐縮に存じます。
速水融氏が、1830年の天保の改革から1880年の松方デフレまでの50年間は人口増加とインフレーションの時期であった、と指摘されていたことを記憶しております。しかし、この記憶が正確であるのか、氏のどの著作で見たものか、勉強不足で確認することができぬままでおります。これについて、renqing さまから何らかのご教示をいただくことができましたらさいわいに存じます。
じつは、上記の50年から50年ごとにたどりますと応仁の乱にゆきつくことに驚きました。そこで、徳川政権確立や明治維新、先の敗戦といった、歴史的な政治的事件によらず、50年ごとの区分で社会の変化を考えるというアイディアに取り憑かれております。
つまり、応仁の乱終了(1477年)後の「1480年〜1530年」を荘園経済が崩壊し惣村・郷村が成立した戦国時代前期、次の本能寺の変(1582年)までの「1530年〜1580年」を感慨治水工事による農業生産力の計画的な発展、城下町の形成、市場経済の発展、といった戦国大名による社会的イノベーションが達成された戦国時代後期、豊臣秀吉から徳川家光に至る「1580年〜1630年」(統一的な政治支配による近世社会の成立期)、さらに徳川綱吉の元禄期に至る「1630年〜1680年」(近世社会の成熟期)、享保の改革に至る「1680年〜1730年」(近世社会の第1の危機、市場経済の勃興)、田沼時代に至る「1730年〜1780年」(近世社会の第2の危機、市場経済の発展)、天保の改革に至る「1780年〜1830年」(近世社会の第3の危機、工場制手工業の発展)、松方デフレに至る「1830年〜1880年」(近世社会の解体と近代産業社会の開始)、世界恐慌(1929年)に至る「1880年〜1930年」(近代産業資本主義社会の発展)、新自由主義政権の成立に至る「1930年〜1980年」(現代産業資本主義の発展と成熟)、そして「1980年〜2030年」(現代金融資本主義社会の発達と終焉?)という50年ごとの区分とする着想に強く興味を惹かれております。
つまり、明治維新をこのような経年的社会変化のなかでとらえてはどうだろうか、と。
1830年から1880年をインフレーションと人口増加の時代として、1880年から1930年がデフレーションと人口減少の時代、1930年から1980年がインフレーションと人口増加の時代であると言ってよいのかどうか、おそらく1980年から2030年はデフレーションと人口減少の時代であろうと思えますけれど。1830年から遡って50年ごとに、インフレーションやデフレーション、人口の増加基調、減少基調を見ることはほぼ不可能ではないかと推察いたしますがいかがでしょうか。
投稿: 薩長公英陰謀論者 | 2015年12月26日 (土) 18時44分