本地垂迹
神仏習合の諸相
1.神は迷える存在であり、仏の救済を必要とするという考え方。
2.神が仏教を守護するという考え方。
3.仏教の影響下に新しい神が考えられるようになる場合。
4.神は実は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたものだという考え方。
末木文美士『日本宗教史』2006年岩波新書、P.39~40
本地垂迹
第四の形態は、本地垂迹と呼ばれる。「本」と「迹」の概念は、中国の六朝時代から見られ、特に日本には天台の教学の影響で広まった。天台では、『法華経』を最も中心の経典として重視するが、それをさらに前半と後半に分け、前半を迹門、後半を本門と呼ぶ。本門で説かれる永遠の仏陀に対して、インドに生まれ、八〇歳で死んだ歴史上の仏陀はその仮の現われ(迹)であるとされる。それが仏と日本の神の関係に適用され、仏を本来の姿である本地、神をホトケが仮に現われた姿である垂迹と見るのである。平安末頃には、日吉は釈迦、伊勢は大日というように、具体的に個々の神の本地が定められるようになる。もっとも必ずしも天台だけでは説明できず、密教で、仏が明王の姿を取る教令輪身の考え方なども関係しているだろう。
また、中国では早く、老子化胡説が成立したが、これは老子がインド人を教化するために、インドに行って釈迦になったというもので、仏教に対抗して中国側から出された説であった。それと反対に、仏陀が中国人を教化するために三人の菩薩を中国に遣わし、孔子・顔回(孔子の一番弟子)・老子になったという説も仏教側から提出された。日本の本地垂迹の形成に当たって、このような説も大きな影響を及ぼしたものと考えられる。
末木文美士『日本宗教史』2006年岩波新書、P.46
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