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2016年9月 4日 (日)

〔要約〕 尾藤正英『日本文化の歴史』(2000年)岩波新書

以下は、下記の書の全編にわたる章・節毎の要約である。閲覧される方のご参考になれば幸甚。

尾藤正英『日本文化の歴史』(2000年)岩波新書
第1章日本文化の源流
第2章古代国家の形成と日本神話
第3書仏教の受容とその発展
第4章漢風文化から国風文化へ
第5章平安時代の仏教
第6章鎌倉仏教の成立
第7章内乱期の文化
第8章国民的宗教の成立
第9章近世国家の成立と歴史思想
第10章元禄文化
第11章儒学の日本的展開
第12章国学と洋学
第13章明治維新における公論尊重の理念
第14章近代日本における西洋化と伝統文化
参考文献
あとがき

■第1章日本文化の源流

・日本の原始文化
 日本列島に人が居住するようになった時期は、二十万年前といわれる。日本における新石器時代は縄文式土器が製作された約一万年前の縄文時代からである。縄文時代の特色は、豊かな自然環境のもとにありながら、富の集中や権力の強大化を指向することがなく、都市や神殿の造営などのために森の自然が破壊されることもなく、むしろ自然と調和し共存する社会を長く維持し続けた点にある。これはまた、日本文化の一面として継承され続けたものであった。

・戦争が始まった時代
 弥生時代は紀元前三世紀ころから入る。その特色は、大陸から伝来した農業生産と、青銅並びに鉄という金属器の使用との二点にある。弥生時代はかつて平和な農業社会とイメージされていたが、近年、戦争が始まった時代であると考えられるようになっている。
 これは実は、世界各地で、農業生産の開始とともに発生している現象であって、生産力の向上にともない、富の蓄積が生まれると、その蓄えられた物資をめぐって争奪のための戦争がはじまるからである。

・原始時代から古代へ
 弥生時代につづく四世紀から七世紀にかけて古墳時代と呼称される。この時期、古代国家が形成される。国家の形成は、一部の支配者たちによって権力と富とが独占される過程であるが、別の面からみれば、政治的な組織が形成されることによって、社会に平和な秩序が生まれる過程であったともいえる。日本のこの時期の特徴は、農耕文化の開始が他の地域に比べて極めて遅かった反面、わずか六百年間の弥生時代のあと、急速に国家形成の進展する時代に入っている点である。それがなぜであるのか。その点には日本人の生活にとって、国家がもつ意味の重要性が示されている。

・日本史の時代区分
 考古学者の佐原真氏、環濠集落のような防衛の設備をもった村や町が存在したのは、日本の歴史の上では、この弥生時代と、十五、六世紀の戦国時代との二回だけだったという重要な事実を指摘している。すなわち、弥生時代が古代国家形成の出発点をなしていたと同様に、戦国時代もまた、その古代国家が崩壊したあとに生れた新しい国家の出発の時期であったのではないか、ということである。そうすると、日本の歴史は、戦国時代のころを境として、その前と後とに二分されることとなる。換言すれば、戦国時代から江戸時代の初めまでは、日本における「近代性」の過程であったと考えることが可能となる。

・日本人の起源
※要約者註
 本節は、1980年~90年代に埴原和郎氏が提唱した「二重構造説」(北海道・沖縄も含む日本列島全体に南方系の縄文人が形成された後、大陸系の、稲作・鉄器文明を持つ弥生渡来人が流入した。その際、北海道(アイヌ人)・沖縄(オキナワ人)とは混交が進まなかったため、その地に縄文人の直系が残った)に準拠した記述となっている。しかし、2010年以降、分子人類学が急激に進展し、かつての主説である埴原説に修正を迫りつつあるのが現状のようだ。したがって、要約の意義はないと判断した。ただし、埴原説が精密な日本人起源説ではなく、かえってアジア全域のグランドセオリーとして甦る可能性もあるようだ。学問や言説のダイナミクスを感じる。
参照:篠田謙一 (著)、DNAで語る 日本人起源論 (岩波現代全書) 2015/9/19

■第2章古代国家の形成と日本神話

・文献資料の限界&古墳の物語るもの
 弥生時代の終わりごろから、さらにそれに続く四世紀以降、日本は統一国家の形成に時期に入る。信頼すべき文献資料の乏しいこの時代に関して、最も重要な資料としての意味を持つのは古墳、特に前方後円墳である。
 この前方後円墳が、どのような目的のために築造されたのかについては、考古学者の水野正好氏の説が説得的である。氏によれば、この形の墳墓は、王権ないし地域の首長としての地位を継承するための儀式が行われる場所であり、後年の皇位継承に際して行われる践祚と即位との二つの儀式の源流が、ここにあると見るのである。
 また、この前方後円墳という特異な形式の墳墓が、大小の差はあれ、ほぼ全国的に共通して分布している点も注目されるが、これは水野氏が主張されるように、中央である大和政権に、設計図に似たものがあって、それが各地の地域的支配者(首長)らに配布された結果と考えざるを得ない。すなわち各地に分立していた地域の首長らは、独立した小国家の建設を目指すよりも、統一国家に服属する道を選んだと考えられるのであり、その点にこそ、統一国家の形成が急速に進んだことの直接の理由がある。
 なお、これらの前方後円墳については、その大部分の被葬者が不明のままとなっている点が注目される。天皇家の祖先を葬った古墳が、被葬者不明となっているのは、諸外国に比べて異例であり、天皇の君主としての地位が歴史を通じて存続してきた点からすれば、不思議なことである。この事実は、死者の墳墓を祭る風習、したがってまた、祖先崇拝の風習が、古代の日本に果たしてあったのであろうか、という重大な疑問につながる。

・日本神話と古墳
 前方後円墳の上で行われたとみられる王権継承の儀式に関して、水野正好氏はさらに注目すべき指摘をしている。それは後円部から前方部への移動が、神話の中での天孫降臨の物語と関係があり、いわばその降臨を再現している見せているのではないか、という解釈である。記紀神話の構成が、天皇の地位の由来を、神々の世界に結び付けることにより、神聖化しようとする意図に基づいていることは明らかであるが、神話そのものは必ずしも無価値ではなく、とくに古代人のものの考え方を示している点では重要な資料の一つであるいえる。その意味で、前方後円墳の上での即位の儀式の記憶が、記紀神話に反映している可能性はある。

・神の性格
 即位の儀式は、現代の大嘗祭に至るまで、宗教的性格が濃厚であって、その点に天皇の君主としての性格の独自性が示されている。その宗教的性格の内容に関して、和辻哲郎による神々の分類 がある。
 和辻によると、天皇は現世に現れた「神」であるが、それは信仰や祭祀の対象となる神ではなく、むしろ逆に各種の神を祀ることを任務としていることにより、神的な性格をおびた存在、すなわち「祀る神」である。これに対し、もっぱら「祀られる神」がある。さらに第三に、「祀り、祀られる神」があって、この第三の類型こそが最も尊貴な神なのである。皇祖神である天照大神がそれである。
 右のような神々の分類ないし序列は、「祀られる」ことよりも、むしろ「祀る」ことの方に重要な宗教的意義があったことを示していると考えられる。言い換えれば、祀ること、すなわち祭祀の儀礼そのものが、祀る対象としての神々よりも重要であった。なぜなら、その祭祀の儀礼は、集団(広くは国家)を代表して、その集団の共同性(国家の公共性)を確認するとともに、集団生活の安寧を祈願するものだったからである。

・国家の統一と家族制度
 古墳時代の前半期である四、五世紀のころ、宗教的権威に依拠して成立していた統一国家は、六、七世紀ころになると、伝統的宗教の力が薄れるとともに、もっと現実的な意味での政治的国家としての性格を強めることとなる。公地公民制の施行がそれである。現在の古代史学界で大化の改新は疑問視されているが、それにしても七世紀末の天武朝のころまでに、公地公民制が実施されていたことは否定できない。土地と人民の国有化という大変革が、短期間に成功したというのは、世界史的に珍しい現象であるが、それが可能だった理由の一つが双系制の家族制度にあったと考えられる。
 父系制の中国では「百姓」を「一姓」が支配するという国家体制が成立したが、双系制の日本では、血縁による強固な結合はできにくく、家族は常に小家族に分かれていく傾向を持つ。このような小家族は、夫も妻も、それぞれ親から財産を分与されて、独立の所帯を営むが、その生活の拠り所となるのは、血縁よりも地縁であった。その地縁による団体が「ヤケ」(宅・家)であり、その中で大規模なものが、「オオヤケ」(大宅)、すなわち地方豪族の住居である。溝口雄三 氏の「おおやけ構造」論によれば、これが古い時代の地域共同体イメージとなって、後の国家規模まで拡大され、天皇の朝廷が「公オオヤケ」とよばれ、古代だけでなく中世以降の国家にも継承される。溝口氏は国家という権力組織の中に共同体が包摂されている点でこれを日本に特殊だと指摘している。しかし、国家の政治秩序が、同時に共同体としての性格を具え、したがってその中に生きる人々の生活の上に、意識されない公共性が実現されているというのが、日本の「おおやけ構造」であったとすれば、それはそれなりの長所であったことが認められなくてはならないだろう。

・氏の系譜と国家
ヤケを基礎とした成立した地域の豪族は「氏」と呼ばれたが、これは血縁団体ではないので、血縁を表示するものとしての中国の姓に相当すするものは本来なかったようである。蘇我氏や物部氏は職掌名であり、天皇から賜与された「姓かばね」は朝廷での政治的称号であって、中国の姓とは全く異質である。天皇家そのものに姓がないのも日本の特色だが、これも「スメラミコト」(統治者または清浄な人の意味の尊称)という職掌名だけで十分とされたからだろう。なお、天皇は、はじめに大王とよばれ、推古朝のころから天皇の称号が用いられた、とされることが多いが、これはスメラミコトを漢字で表記する場合の用字法にすぎない。
 古代史家の義江明子 氏は、古い時代の氏の系譜が一系系譜(父方)と両属系譜(父方・母方)のいずれか、あるいは両者の組み合わせによって作られていることを明らかにし、それにより双系制家族を基盤としながら、父系に類似した系譜をもつ集団としての氏が形成されたとしている。義江氏はまた、「氏は、大王への政治的求心性と他氏との相互関係性を出発点からの特質として持つ非自律的集団である」と表現している。それとの対比で言えば、中国の父系の血縁による大家族(宗族)は、必ずしも国家などに依存しなくても存続できるという意味で自律的集団である。
 以上が大化改新以前の氏姓制度であるが、その中心となった大王(天皇)家の系譜にも両属系譜の性格が示されており、それだけに大王の母方にあたる豪族の勢力が大きくなる場合があったと推測される。これに関連して、応神陵や仁徳陵などの巨大古墳が、王権の中心である大和ではなく河内にあるのはなぜか、とうい疑問に対し、皇后の出自氏族が天皇陵造営の地を提供したのではないか、とする水野正好氏の説が注目される。
 古代国家の成立過程について、畿内政権説を批判するのは長山泰孝氏であり、「国家は社会の内部に統合への強い要求が存在するとき、実体的な支配を超えて形成されうるもの」であり、「日本の歴史の特徴は、むしろきわめて早い時期に列島の主要部において政治的統合が実現し、対内的な平和化がもたらされた点にある」とするがこちらのほうが、既に四世紀から前方後円墳の全国的分布がみられるという事実を、畿内政権説よりも整合的に説明可能であり、正しいと考えらる。

・律令制と氏族
 六・七世紀のころになると、中央政府の要職が、畿内出身の豪族によって占められるようになったのは事実であり、その中でも最も強大な蘇我氏を排除して、大化改新が開始され、唐の律令制度を範として中央集権的な国家をめざす制度の整備が進められた。しかし律令制度の導入にも関わらず、氏姓の制度は廃止されず、氏すなわち豪族の連合としての国家の性格は存続した。
 この国家の共同体的性格は、一面では、氏すなわち豪族自身の地域共同体的性格に基づき、また氏と氏、氏と国家との間の協力関係ともいうべきものに支えられていた。
 氏そのものの内部構造も変化する。義江明子氏によれば、「氏神」という熟語が史料上現われるのは奈良時代以降である。日本人の宗教として、古くから祖先崇拝があったとされることが多いが、氏の性格の変化にともない、この段階で初めて祖先崇拝の信仰が生まれ、またそれが氏の祖先からやがて家の祖先へという形で継承されていった、という義江氏の指摘は妥当だろう。

・万葉集と白鳳・天平の文化
 万葉集は柿本人麻呂が活躍した七世紀末を画期としてその前後に区部できる。前半は、共同生活を背景とした作品であったが、八世紀の奈良時代になると、歌人の個性が明確になり、個人の心情を表現した歌が多くなる。これは、「氏」の共同体的性格と、それを基礎とした統一国家の建設、ならびにその国家が完成された直後から始まる共同体の解体という社会事象の推移がその背景をなしていたのだろう。美術史上での、気宇壮大で明朗な白鳳時代から、知的な精神性を示す天平時代への推移も、それと共通しており、現代に通ずる日本人の精神生活の出発点がそこにあると言ってよい。

■第3書仏教の受容とその発展

・仏教の伝来
六世紀中葉以降、大陸文化等の影響で前方後円墳の築造は衰退に向かい、それに代わって蘇我氏や有力な氏族、さらに政府による寺院の建立が盛んになった。すなわち、統一国家を支える政治的宗教が、古墳時代初期の原始的信仰から、新しい仏教へと変化していった。
・聖徳太子と法隆寺
推古天皇の摂政としての聖徳太子の政治は、仏教と儒教などの大陸の先進文化に依拠しながら、国家の統一性を強めようとしたところに主眼がある。仏教に対する太子の熱意を示したものとしては、法隆寺の建立と並んで、三経義疏の著述がある。そしてこの三経は、いずれも大乗仏教の特色をよく示している。

・律令国家の僧尼統制
七世紀末の天武・持統朝から唐に習って律令が作られ、八世紀初頭に大宝律令、次いで養老律令として完成された。その中の僧尼令は厳格なものだったが、早い時期から私度の僧尼が多く現れた。一つの理由は、僧尼になれば課役から免れることができるためであったし、政府がこの統制を強行しようとしていたとはいえない面がある。

・大仏造営と行基の活動
聖武天皇が造営の詔を発布した大仏は、盧舎那仏、すなわち華厳経に基づく法身仏であった。華厳経の教理の特色は、一なる個人の心に世界の事物の一切が含まれ、一なる個としての自己は一切の事物との関係の上に成り立ち、個人や自己としての実体はないとうものである。聖武天皇はそこに自己と他者、あるいは個人と社会の関係のあるべき姿、いわば共同体的な性格を持つ社会の中での個人の生き方をを感じ取り、古代国家の共同体的性格が解体しようとする時代の再生を、仏の力に頼って実現しようと努力していたのだろう。なお、この大仏造営には行基が関与している。行基は弟子である私度僧らと民間で布教し、各地で土木工事を伴う社会事業を行っていたため、政府は非難していたが、天平十七年には大僧正に任命し大仏建立に協力させている。それは行基の民衆指導者としての活動が有意義とみなされたことを示している。

・鑑真による戒律の伝来
当時の日本には、正式に僧となるための、正しい戒脈を伝え、「授戒」の儀式を行える師となるべき人がいなかった。そこで唐の鑑真が招請され苦難のすえ天平勝宝六年に入京した。東大寺に戒壇を設立した鑑真は、晩年を現在の唐招提寺の地で送り、戒律の教育と研究に専念した。戒壇は、東大寺のほか、下野の薬師寺、九州の大宰府の観世音寺に設置された。

・奈良仏教の終末
聖武天皇のあと、孝謙天皇となり、譲位後再び称徳天皇として即位した。天皇は深く仏教を信じ、また僧である道鏡を寵愛した。そして、僧侶の堕落などもあり、称徳天皇が没した宝亀元年を画期として政治と仏教の関係が大きく変化した。

■第4章漢風文化から国風文化へ

・皇統の変化と政治改革
称徳天皇が没すると、光仁天皇、桓武天皇と続き、ここに奈良時代続いた天武系から天智系への家系が変化した。この変化にともない、桓武朝のころから漢風の文化の顕著な発展をみることとなった。

・長岡京から平安京へ
光仁天皇は道鏡を下野国へ配流し、綱紀粛正に努力した。ついで桓武天皇は平城京から長岡京に都を移したが、建設責任者の暗殺、天皇家での相次ぐ死亡、疫病の流行等が早良親王の怨霊の祟りとみる考え方がひろまり、十年間で放棄し、都を平安京に移した。怨霊の観念が歴史上に現れるのはこのころからであり、平安時代の宗教思想の一つの特色をなした。

・伊勢神宮と石清水八幡宮
伊勢神宮の成立の由来は確実なことはわからないが、皇室の祖先である天照大神を祭る神社として崇敬の対象とされたのは七世紀の天武朝のころからのようであり、同じ頃に記紀神話の体系が構成されたことと無関係ではないだろう。その伊勢神宮で皇祖神を祭るという信仰は、平安時代初期の桓武朝になると、中国における宗廟の観念と結び付けられるようになった。

・天を祭る儀式と渡来人
「天」を宗教的権威とし尊崇するのは中国の伝統的観念であり、日本にはそのような伝統はないが、桓武天皇は延暦四年河内で祭天の儀式を行った。この中国の模倣である宗教儀礼は結局定着しなかった。桓武天皇は光仁天皇の喪の際、その服する期間を中国風に長期に設定したが、貴族らの反撥を招いた。このころから、大陸文化の影響を強く受けながらも、日本独自の宗教的伝統が自覚されるようになる。これがのちの神道の始まりである。

・漢風文化と貴族社会
桓武天皇が渡来人と密接な関係をもち、中国文化の導入に熱心であったため、平安初期の九世紀の前半には、朝廷を中心に漢詩文が盛んになった。このような漢風文化はこの時代の特色であるが、宗教的儀礼までその模倣が試みられたのは、天皇家の家系についての意識の変化という、社会的要因があったと考えらる。それは家系を中国風の父系家族の系譜で見る意識であり、天皇家そのものは、中国風の一姓支配ではないにしても、それに似た血縁家族としての性格を明確にしつつあったことの反映であった。そして、純粋な血縁家族となったことにより、天皇家の系譜は、古来の伝統である双系制の性格を明瞭に示すことになった。いわゆる摂関政治への移行である。

・摂関政治と女流文学
平城京から平安京への遷都に伴い大和に地盤を持つ古来の有力な氏は没落し都市貴族の新しい氏、源平藤橘が平安京の貴族社会を形成した。このうち藤原氏がその娘を皇后とし、良房、基経に始まる、天皇の幼少時は摂政、成年時には関白として朝廷の実権を掌握する、摂関政治が十一世紀半ばまで続いた。これは、父系制の中国と異なり日本が双系制であったからである。吉川真司氏は摂関政治を前後期に区分し、前記は律令制度の枠内、後期は中世の国家制度に連続するとする。これを社会組織から見れば「氏」社会から「家」社会への移行過程といえる。この時代は女流文学が栄えた。その理由は第一に女文字と呼ばれた仮名の発達、第二に天皇の母として力を持つ皇后や中宮らの華やかな後宮の社交的世界がある。『源氏物語』が優れた作品となった理由について、「物のあわれ」論の本居宣長説を批判した「虚構に託した人生の真実の表現」の阿部秋生 氏の説がある。

・怨霊の鎮魂と陵墓の祭祀
不幸な死をとげた人の霊魂が、その祟りとして、疫病や火災・落雷などの変災をもたらすと考え、その霊魂、すなわち怨霊を鎮めるための祭祀を行うようになったのも平安時代に入ってからのことであった。それは平安京という巨大都市での流行病への不安、仏教の普及に伴い死者の霊魂の存在が信じられるようになったことと関係がある。そういった新しい神々への信仰に比べると、祖先祭祀についての関心は、一般にはむしろ希薄であった。

■第5章平安時代の仏教

・奈良仏教と平安仏教
奈良仏教の性格が学問仏教に対して、平安仏教の特色は、仏教を単なる知識としてではなく宗教的な実践のための指針として受容しようとした点にあった。

・最澄と天台宗
最澄は十九歳のとき東大寺で受戒、804年遣唐使に加わり渡唐、天台宗を学び約八か月で帰国、桓武天皇の信任を得て、比叡山を活動根拠とする。その活動で注目されるのは仏性論争と大乗戒壇設立運動である。仏性論争は最澄が、人間は誰でも学んで努力すれば、仏陀の教えた悟りの境地に入ることができるという一乗思想を主張したのに対し、法相宗の徳一が人は生まれつき五種類の区別があって、そのうちの一つの人々はいかに努力しようとも悟りの境地に到達することは不可能である、とするもの。大乗戒壇設立運動とは、鑑真によって伝えられた戒が専門の僧侶でなければ困難なものだったので、最澄が戒律は遥かにゆるやかで十分であると考え、授戒の儀式についても大胆に簡素化し、そのための戒壇の設立を計画・実行しようとして、南都の僧綱と対立したこと。

・空海と真言宗
空海は儒学を学んだ後、仏門に入り、804年に受戒し最澄と同時に渡唐した。約2年間滞在し最新の仏教、特に密教を本格的に学んだ。806年帰国し3年後嵯峨天皇の下で文人として活動しつつ、自己と仏との一体化を直接的な体験として実現することめざす「即身成仏」の真言宗を建て、高野山に根拠を与えられた。旧仏教との関係でいえば、空海は妥協的、現実主義者であり、最澄は革新的、理想主義者であった。そのため平安中期以降の貴族社会では真言宗の影響力が強かったが、次代の鎌倉仏教の諸宗派が天台宗の影響下に成長したことが注目される。

・台密と天台本覚論
密教研究は比叡山でもすすみ、東寺を中心とする真言密教が東密と呼ばれるのに対して、天台密教は台密と総称され、その発展の結果として、平安末期から鎌倉初期にかけて、天台本覚論とよばれる独特の密教思想が生まれた。天台本覚論とは、すべての現実は、現実のありのままの姿で、仏の世界を具現しているのであり、したがって人は修行を積んで仏になるのではなく、もともと仏なのであって、それを自覚していないだけなのである、とする思想であり、そこに日本人による仏教理解の特色がよく示されている。

■第6章鎌倉仏教の成立

・古代から中世へ
12世紀末には鎌倉幕府が成立する。その意味では、12世紀はその全体が大きな社会変動の時代であったと考えることができ、12世紀を画期とする古代から中世への移行は、「氏」の時代から「家」の時代への移行とみなせる。ただし庶民にまで「家」の形成がみられるのは14、5世紀だから、12世紀から15世紀にかけての中世全体を大きく「家」の形成にともなう社会変動の時代といってもよい。成員の平等性と自発性を特徴とする「家」は、それを構成する人々が、血縁の有無にかかわらず、相互に信頼し、その家業のために必要な役割を、それぞれが分担して遂行することにより、永続性を目指そうとする組織であった。この信頼という人間関係と、それに基づく職分(役割)の遂行が「家」の原理であったとすれば、「信」と「行」とを基本とした鎌倉仏教は、その原理の宗教的表現であったと言えよう。

・鎌倉仏教の歴史的意義
平安仏教は、単なる知識ではなく実際に人間として生きてゆく上で役立つ仏教であろうとし、そのための試行錯誤を重ねてきた。その努力の過程の到達点として多様な解決の実を結んだものが鎌倉仏教であった。これにより、外来宗教であった仏教が、日本人の実生活と結びつくこととなった。

・浄土信仰の源流と源信
浄土信仰とは、阿弥陀仏を信仰することにより、極楽浄土に生まれ変わろうとする考え方である。それはインドにおける大乗仏教の中で生まれ、中国の北魏、隋、唐で発展した。日本にも早くから伝えられ、最澄の仏教の中にもその要素が含まれ、その後継者の円仁によって比叡山に導入され推進されたが、その中でも画期的だったのが源信による『往生要集』とその影響だった。

・末法思想と浄土信仰
これまで末法の世になったから浄土信仰が広まったという説明が流布しているが、これは事実というよりも、浄土信仰を説こうとする立場から強調された一種のフィクションである。むしろこの時代の社会全般には、末法とよばれるような絶望感はなく、変革の時代にふさわしい活気がみなぎっていた。そういう社会状況では、煩瑣な儀礼を必要としない、簡易な仏教の教えが求められ、その要求に応えたのが浄土信仰であり、逆にそれに伴って、浄土信仰の理由づけとして末法思想も広がった。元来中国においても同様であり、それを受けた『往生要集』序文に見られる「末代」あることを強調した説明の方式が、その後の浄土教にも受け継がれていった。

・法然と浄土宗
法然は9歳で出家し比叡山に登り、学問を積んで後、『往生要集』に接して開眼し、山を下って、独自の浄土信仰を説くようになった。新仏教としての鎌倉仏教の歴史はこの時から始まる。法然の主著は『選択本願念仏集』であり、この「選択(せんじゃく)」という観念を強調したところにその宗教の特色がある。すなわち、阿弥陀仏は、多くの行の中で四十八を選択し、さらにその中でも最も平易な念仏の行を、第十八願として選択したのであるから、人はただ、そのことを信じ、称名念仏するだけで、極楽浄土に往生することができる、と法然は説いた。この阿弥陀仏の選択した本願に対する「信」が法然の信仰の基本であるが、それとともに「乃至十念」の解釈として、十回ないしそれ以上「南無阿弥陀仏」を唱えることが望ましいと法然は考えており、それは法然において念仏そのものが一種の「行」としての性格を持っていたと言えよう。

・親鸞と浄土真宗
親鸞は比叡山で「堂僧」であったが、京都六角堂の参籠後、法然に師事した。関東地方の常陸の稲田に移り、18年間送り、この間に独自の浄土信仰に到達し門人も増えた。親鸞の思想の特色は、信ずる心を含めて、浄土往生に必要な条件は、すべて阿弥陀仏の願力によってすでに実現されているのであって、ただその事実を信じさえすればよい、と述べた願力回向の説にある。したがって、念仏にも「行」としての性格はまったく無く、徹底した絶対他力の信仰といえる。

・本覚思想と鎌倉仏教
親鸞の願力回向の説は、天台本覚思想と共通した立場である。また、晩年の親鸞は、人は如来(仏)に等しいとする、如来等同の思想を述べた。通説では、天台本覚思想を否定することにより鎌倉仏教が成立したと言われているが、両者の間には親鸞の信仰に見るように、むしろ連続性があり、理論としての本覚思想を、実践的な宗教として具体化したものが鎌倉仏教であったと言えよう。

・一遍と時宗
時宗の開祖となった一遍の浄土信仰にも、本覚思想との密接な関連が示されている。一遍は、阿弥陀仏に救われていることを知った歓喜の心を、踊り念仏に表現して広く各地を巡回した。これを遊行回国といい、平安時代の空也のそれを継承していた。

・禅宗の伝来と道元
鎌倉仏教の中の禅宗には曹洞宗と臨済宗がある。禅宗は中国で完成されたものを日本に輸入する形をとったので、外来宗教の性格が強いと言われる。しかし、曹洞宗の開祖、道元は独創性が顕著であり、臨済宗はしばらく外来宗教としての性格が強かったが、鎌倉時代の終わりごろには、しだいに独自の発展の道を歩むことになる。

・道元の伝記と思想的遍歴
道元は貴族の出身である。13歳で比叡山に登ったが、やがて天台教学に疑問を抱き、山を下って臨済宗の明全を師とし、24歳で師とともに渡宋し、天竜山で如浄の指導に従い、悟りの境地に到達した。三年後帰朝し、44歳で越前の波多野氏の招き応じ、波多野義重の建立の大仏寺(のちの永平寺)に住んだ。天台教学への疑問とは、人が本来仏であるならば、どうしてさらに発心修行して菩提を求める必要があるのか、という天台本学思想に対する疑問であった。

・道元の宗教思想
道元の『正法眼蔵』は、格調ある独特の和文で記述されており、内容はもとより、表現の面からみても、和文による宗教的・哲学的論述の最高峰の一つである。例えば、仏教を学ぶことは自己を知ることであり、自己を知るためにはその自己を忘れた自由な境地に入らなければならない、といった論述には、道元自身の「心身脱落」の体験が分かりやすく説明されている。道元の信じた仏教とは、どこにでもある平凡な日常の生活が、仏教の教えに従うならば、生き甲斐のある、輝きに満ちた生活になり、それが現実の真の姿なのであり、行為を通じて、その真実を体験すべきことを教えること、である。

・道元における修行と悟り
「修」と「証」とが一致し、座禅は仏となるための修行ではなくて、仏としての修行であるとする道元の考え方は、人は本来、仏であるとした、天台本覚論と同じ立場である。しかし、仏であるという事実に安住するのではなく、仏であるからこそ、無限の修行をつづけて行かなくてはならないというように、「行」に重点を置いたところに、道元の宗教の特色があった。また同時に「行」は、修行であるとともに、人として生きて行動すること、すなわち日常の社会的活動でもある。このような「行」の仏教を確立したことにより、道元は本覚思想を継承するとともに、それを実践の教えとして発展させた。

・日蓮の生涯
日蓮は安房国の庶民の出身であり、13歳で近隣の天台宗の寺院に入り、鎌倉、京、高野山を巡歴したのち安房に戻り、唱題を始めるとともに、日蓮と称するようになった。日蓮は天台宗の伝統を継承しつつ独自の法華経、すなわち日蓮宗を開いた。日蓮は『立正安国論』を著し、浄土信仰を邪教として弾劾したが、その咎で伊豆、佐渡に配流された。許されて鎌倉に戻り、一時は甲州身延山に移ったが健康を害して没した。

・日蓮の宗教思想
日蓮の宗教は法華経の「本門」の思想に立脚し、それを独自に発展させた。すなわち本門は本覚論と一致し、それ以前の天台宗は、迹門に重点をおいたものと批判される。しかし、本覚論の立場を継承しながら、唱題という「行」を重んじた点に、日蓮の宗教の特色があり、そのことにより日蓮は天台本覚論を実践の宗教として発展させることに成功したといえる。本覚論を基礎としながら、「行」を重視することにより、新しい宗教的世界を開いた点で、道元と日蓮は共通している。

■第7章内乱期の文化

・武士の政権と平家物語
中世は内乱の時代でもあった。保元の乱と平治の乱は、長く平穏であった都の中で戦闘が行われた点で、人々を驚かせた。摂関期以降、都の貴族たちは地方に関心が無かったので、地方の社会秩序は武装化した地主・豪族が担い、そこに中央政界から源氏や平氏の子孫を迎えて大きな組織を形作った。これが武士の発生であり、その武力が都の貴族たちに利用され、武士が中央政界に進出した。その先駆が平清盛であったが、貴族化した平氏は地方の武士社会から遊離し、代わって源頼朝が台頭した。その平氏の盛衰を描いた『平家物語』は平曲となって人々の間に広く親しまれた。成立した鎌倉幕府は全国の軍事・警察権を掌握し、国家の公権力は朝廷から幕府に移った。承久の乱の朝廷の敗北はとくに決定的だった。源氏将軍の絶えた後、北条氏得宗家が執権として実権を握るが、御家人の家族形態が惣領制から「家」へ移行すると、軍事力の基盤が弱体化し、鎌倉幕府は崩壊する。

・内乱期の過程と歴史の見方
1333年に鎌倉幕府が亡び翌年建武新政が始まるが、三年後の1336年崩壊、後醍醐天皇が吉野に移り(南朝)、足利尊氏が京都に幕府を開いて光明天皇を立てた(南朝)。これまで、天皇家は両統迭立で妥協を図ってきたが、ここに大覚寺統が南朝、持明院統が北朝となって皇統が分裂した。1392年南北朝の合一により室町幕府が中央政府となるも政局は安定せず、地域支配者として守護大名が現れ、十六世紀には戦国大名が各地に出現した。南北朝期文化を代表するのは二つの史書である。『太平記』(40巻1371年頃完成)は個人道徳を基準とした儒教的歴史観に立つ。北畠親房の『神皇正統記』(1339年頃執筆)も道徳上の正しさを基準としている。正しい者が勝つという普遍的な歴史観は、これまでこれほど明確に表れていなかったものであった。それは、個人の道徳によって社会の動向が左右されるとみる意味で、この時代に個人の自覚が高まったきたことの現れであるともいえる。

・神信仰の道徳化
個人の道徳を重視する考え方は、仏教の普及と相まって、古来の神信仰にも影響を及ぼし、神道の理論ないし思想体系とでも呼ぶべきものが求められ、中世に形成された。その最初は、密教の理論を神信仰に適用し、神仏習合の考え方に基づく、平安末期に現れた両部神道(仏教神道)である。次は、鎌倉から南北朝にかけて仏教とは区別された日本独自の宗教としての神道を唱えた伊勢神道で、北畠親房にも影響を与えている。室町時代には吉田神道(正式には唯一宗源神道)が登場した。

・民間の神社の成立
この時代の新しい現象として、村や町など民衆が生活する社会に、その地域の共同生活の中心をなすものとしての神社が造られるようになった。神社の神は、住民の守護神であるとともに、その共同生活の公共性を表象するものであり、宮座と呼ばれる住民の共同組織によって運営され、その風習は現在まで各地に伝存している。このように神事が本格的になると、神事や服装の知識、神社の社格や神主の身分についての保証が必要となり、吉田神道の吉田家はその需要に応じて、知識を分与し、社格や身分の認可について朝廷に取り次ぐことで、このころから江戸時代にかけて全国各地の民間神社の大多数を配下に置くようになった。

・共同性を基礎とした文化
民間神社の成立は、村や町が共同体としての性格を持つ地域集団となったことを示している。その特徴は、住民自治と自衛のための環濠集落である。村や町では、寄合とよばれる集会が催され、連歌の会を開き、茶の湯や立花などを楽しむなど、新しい文学や芸能が生れた。将軍や大名の邸宅の「会所」でも同様で、能、狂言も、このような寄合や会所に集って、「座」をなしている人々を観客として演じられることによって発達した。この共同性を基盤として生れた、茶道、花道、能、狂言などは、日本の伝統文化を代表するものとして現代まで生命を保っている。

・内乱期と現代
内乱期、とくにその終末に近い十五世紀ころが、日本の歴史の上で画期的な意味を持つことを指摘したのは東洋史学者内藤湖南であった。応仁の乱の前後を境界として、日本の歴史は二分され、それ以後の歴史は衣食住の生活全般にわたって現代にまで連続している。和服の原型の小袖の着流し、三食の食事、和風建築の源流となった書院造りが始まったのもこの時代であり、日本語の歴史の上でも、十四、五世紀は古代語から近代語への移行の時期とされている。日本語の歴史が古代語と近代語とに二分されるのであれば、日本の歴史そのものもこの時期を画期として、広い意味での古代と近代との二つの時代区分にするのが日本の歴史の実態に即した考え方である。

■第8章国民的宗教の成立

・国民的宗教とは
ここでいう国民的宗教とは、神道(神信仰)と仏教を基本として、各種の宗教が全体として一つの宗教を形成して日本人の宗教生活を成立させ、地域的にも、また社会階層の面でも、国民的規模において共有されているもの、をいう。例えば、昭和初年までは一般的に見られた、村や町ごとにお寺やお宮がある風景は、その国民的宗教を象徴している。

・寺の成立
鎌倉仏教が大きく教団化したのは14世紀以降のことであり、それに伴い身分の別なく成立したのが、檀家とその葬式・法要を営む菩提寺で形作る檀家制度である。古代の官寺や中世の禅宗寺院は葬式とは無関係でり、その中で菩提寺の役割を担うものも出たが、もとより一般庶民のための菩提寺としては多数の民間寺院が必要となる。浄土宗寺院の由緒書を調べた竹田聴洲 によれば、開創年代の明らかな4435寺では、その90%が16、17世紀の二百年間に創立されていることがわかっている。

・葬式仏教の歴史的意義
檀家制度や本末制度は、江戸幕府により鎖国以後の宗教統制のために作られたというのが通説である。しかし前記の竹田氏の研究によれば、民間寺院の80%が鎖国直後の寛永20年(1643年)までに成立している。これからすれば、檀家制度や本末制度は、権力による人為的なものではなく、それ自体としては自然発生的に成立したもので、ただそれが政治的に利用されただけであったとみるべきであろう。葬式仏教として非難されることも多い日本の仏教だが、15、6世紀にはすべての人が死後に葬式をしてもらえるようになったことは、人々の精神生活の上に重要な意味をもっていた。死ねば仏式の葬式をしてもらえて、必ず仏の世界に行くことができれば、個人としてこれほど安心なことはない。それで現実の社会生活は充実したものとなるであろう。それが日本の葬式仏教のもつ本来の意味であり、そのような形において天台本覚論が現実のものになったともいえよう。

・両墓制の成立
古代より墓は上流社会のものであったが、仏教の普及にともない十五世紀前後に、身分や階層に関係なく、すべての人に墓が作られるになった。それが、埋め墓と詣り墓の二つの墓を持つ両墓制である。埋め墓は死者が土葬されるだけであり、年忌の法事などはすべて詣り墓で行われる。

・人を神に祀ること
すべての死者がホトケになることができるようになったとき、人が死後にカミになるという、新しい神信仰も生れた。古代までは不遇な最期をとげた人々が怨霊なったとして祀られた。正常に死没した人が神に祀られたのは、豊臣秀吉の場合が最初である。その後、徳川家康が日光東照宮に祀られたのをはじめ、近世以降は功績ある死者が神として祀られた。現世ではそれらの神々によって守られ、死後は仏の導きによって極楽浄土へ行くことができるというのが、現在でも大多数の日本人にとっての宗教的信仰であり、これを国民的宗教とよぶとすれば、この成立時期は、この十五世紀頃である。

■第9章近世国家の成立と歴史思想

・中世から近世へ
中世(鎌倉・室町時代)の政治的支配は、荘園領主としての公家、武家、寺社の三種類の権力者たちによって国家権力が構成されていることを指して権門体制と呼ばれる。しかし、十五世紀頃から荘園制の崩壊によってそれは解体した。この無政府的な社会状況に対処するため、村や町は住民による自衛の組織を作らねばならなかった一方、同時に新しい公権力の形成をめざす動きが起こった。下級武士や庶民の間での「家」の形成とその「家」の集合としての村や町などの地域の共同生活組織の形成がそれである。村や町は小領主とともに惣と呼ばれる集団を作り、荘園領主や守護大名に対抗して土一揆や国一揆を起こした。それらの動きを吸収し糾合して、十六世紀に新しい体制の建設を主導したのが戦国大名である。

・役の体系としての近世国家
各地の戦国大名に共通するのは検地と兵農分離である。検地は新しい租税制度の基礎として農地などの生産力の実態を調査することであり、生産力は貨幣による貫高、米の量による石高で表示された。兵農分離は、この時期の武士たち(国人、地侍)が農村に居住し、農民との区別が明確ではなかったのを「役」の種類によって明確にしようとしたものである。そして武士と農民がそれぞれ国家の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする際の任務が「役(ヤク)」、その役割分担の組織が「役の体系」である。それは十六世紀に成立した新しい国家の特色をなすものである。また武士・町人が城下町に、百姓が村に住むという形の兵農分離は、武士が他の身分に干渉せず町は町、村は村の自治に委ねられ、各身分の技術や学問がめざましい発展を遂げた。そうすると日本史上の近代は、十六世紀の近世国家の成立とともに始まったと考えてよいだろう。

・キリシタン禁制と朝鮮出兵
戦国時代の天文十八年(1549)にフランシスコ・ザビエルによって伝えられその後西日本で広まったキリスト教(カトリック)だったが、天正十五年(1587)豊臣秀吉は国政上の理由(国家の統一性の侵害)から最初の禁教令を布告した。ただ慶長5年3月には家康によってプロテスタント国英蘭との貿易が画策され結果的にオランダによる長崎貿易の独占となった。他方、近世国家は、北方のアイヌには蠣崎氏を、南方の琉球国に対しては島津氏をあて支配させた。結局失敗に終わったが、文禄元年(1592)から慶長3年(1598)に至る朝鮮出兵もその国家的事業の一環である。秀吉の出兵失敗後、満州女真族の後金国(のちの清朝)は2度にわたり朝鮮出兵し朝鮮国王を服属させている。その後清朝が版図を次々と拡大したことやナポレオン軍の欧州席巻を考慮すると、秀吉の朝鮮出兵も世界史的視野からの考察が必要であろう。

・桃山文化の特色
その特色は、第一に、城のように実用的・機能的であることが、かえって新しい美しさを生み出している。第二に、回遊式庭園みられる、行動するにつれて現出される美しさという意味での行動性である。第三に、書院造の御殿に、集団的活動の場として設けられた対面所にみられる社交性である。

・歴史の時代
学問、思想分野でのこの時代の特色は、古代からその当時までを通観した歴史書の編纂がある。江戸幕府の事業としての『本朝通鑑』(273巻、寛文10年=1670完成)と、徳川光圀による『大日本史』(1657~1906)は、いずれも公的な機関による日本通史の編纂である。個人では、山鹿素行の『中朝事実』『武家事紀』、新井白石の『古史通』『読史余論』などが試みられ、新時代の始まりを意識し、その視点から過去の歴史全体を整理してみようとする意図が当時あったと考えられる。

・儒学の歴史観
儒学の歴史観である易姓革命を日本史に適用したのは、『大日本史』と『読史余論』である。『大日本史』が日本史の記述を南北朝時代までで完結したものとみた理由は、正統である南朝の滅亡とともに、古代以来の天皇の国家の歴史も終ったとみたものといえる。ただし江戸時代後期に出版された現行本では、不明瞭になっている。『読史余論』は名著として、白石の著書中で最も広く江戸時代に読まれた書物で、南朝まで続いた天皇の朝廷のあと新しい武家の王朝が成立したとみる徹底した革命史観に基づいている。

・儒学の普及
儒学の思想が普及し始めたのもこの頃であり、儒学者としては、藤原惺窩(1561-1619)やその門下、林羅山(1583-1657)がいる。とくに林羅山が慶長8年(1608)に、京都市中で公開の席で『論語』を朱子の注釈によって講義したのは画期的であった。それまで儒学の知識は公家の秘伝であったからである。出版物としては、京や田舎で二、三千部も売れたと伝えられる、朝山意林庵の仮名草子『清水物語』は、対話の形式の平易な教訓書であるが、新しい時代を迎えて、人々は心の拠り所を求めていたことがうかがわれる。

■第10章元禄文化

・近世社会と仏教思想
信長に始まる近世統一権力は仏教教団と対立した。しかしそれは世俗的な勢力を持つ権門としての仏教教団であり、仏教や宗教そのものに対してではなかった。延暦寺は軍事力を有していたし、一向一揆は実質的に国人一揆の一種とみなすことができる。
 この時代の新しい仏教思想として、武士・農民など、それぞれの身分に応じて、職分を遂行することが、すなわち、仏行、仏としての行為であると説いた、鈴木正三『万民徳用』が注目される。

・元禄文化とは
十七世紀終わりから十八世紀初頭にかけて上方で発展したのが元禄文化である。発展した町人の経済力を背景に花開いたが、担った人々には武士出身者もかなり多かった。桃山と元禄の文化を比べると、単に権力者の文化から町人の文化になったというのではなく、公的な会合の場と結びついた文化から、私的な個人の内面性を表現する文化に変わったといえるだろう。

・元禄文化の社会的背景
桃山文化の「公」的組織(国家)の全体性を表彰するものから、元禄文化の私的な個人の内面性を表現するものへ変わったということは文化の成熟を意味するだろう。それはまた政治権力と個人の生き方の間に矛盾が生まれてくることも意味する。その一つの事例が赤穂事件である。これは幕府の法規と当時、天下の大法であると信じられていた「喧嘩両成敗」原則に矛盾が生じたことを指す。つまり、幕府の法に基づいて裁判するという政治方針と民間の慣習としての法の観念との間に矛盾が生じたわけで、まさに「公」的なものと「私」的なものとの分裂と言える。

・儒学の受容
「公」的なものと「私」的なものの対立関係は、儒学の受け入れ方にも現れている。一つには、将軍綱吉や学問を愛好した上流の人々の趣味に近いもので、権力者が建物を造るとか、儒教式の儀式を行うという面である。これに対し、一般庶民にも十七世紀を通じて普及した儒学は、礼法よりも精神の面だけで受け入れられ、誰にでも学ぶことができるものとなっていた。つまり、中国や朝鮮国とは異なり、日本の場合には、礼法から切り離して精神だけを学ぶという儒学普及の特色があった。

・新しい芸術の創始
元禄文化では種々の人々が活動したが、一つの共通項として、近松や西鶴にもみられる「義理」という言葉が指摘できる。「義理」は人間としての誠実さ、誠実である以上は守らなければならない決まりを意味しており、人間的なモラルに近い観念である。新しい現実を当時の人々は「俗」という言葉で表し、新しい現実の中でのモラル、あるいは良心的な生き方を求めようとした。そういう人生に対する誠実な態度が、この時代の人々に共通し、それにより人間味のある、優れた文化が生まれたところに、元禄文化の大きな特色があった。

■第11章儒学の日本的展開

・朱子学の性格
 近世日本における儒学の出発点となり普及したのは朱子学であった。
 朱子学の性格として注目すべきは、理性によって自己を統御するという主知主義と、個人の一人一人が道徳的に立派な人間にならなければならないという個人主義である。この主義主義的・個人主義的性格には、日本の精神風土と合致しない面があった。そのため日本では、朱子学に対する批判が十七世紀の中頃から次第に起こってくる。それは特に、修養の方法としての「格物」つまり礼法の実践に対するものであった。その一方で、朱子学は江戸時代の日本社会に受け入れられる面も備えていた。
 一つは、朱子学にある、人間の平等性に基づいて個人の自主的な生き方を考える、という側面が、近世日本社会の戦国期自治組織から受け継いだ平等意識と共鳴する可能性があった。また、当時の中国(明・清)で朱子学が科挙のための学問、すなわち官学となっており、十八世紀後半の日本でも様々な学校教育が普及する過程でそれに倣いカリキュラムとして朱子学が採用されたことも大きい。

・古学の成立
朱子学が日本社会に受け入れらる過程で、そのままの朱子学では弊害を生み出すと気づかれ、それを批判する新しい運動、すなわち古学を起こった。
 古学とは、山鹿素行の「聖学」、伊藤仁斎の「古義学」、荻生徂徠の「古文辞学」の総称である。この三者は立場を異にするが、共通しているのは、儒学の古典に関するあらゆる注釈を捨て、古典の原文に帰り、原文そのものを精密に読むべきであると唱えたことである。
 山鹿素行は、朱子学における道徳的「知」を事物を客観的に認識することと解釈し、軍事や武士の生活に関する知識を集め、武士としての社会活動の方法を具体的に教えようとした。
 伊藤仁斎は、『童子問』の中で、寛容の精神こそが孔子の教えであったとし、「仁」すなわち愛の心と、「恕」すなわち思いやりこそが道徳に主眼であると説いた。
 荻生徂徠は、国家の制度(「礼楽刑政」)がうまくできていれば、その中で人々はそれぞれの能力や個性を発揮し、互いに親しみ合い助け合って生きてゆくものであり、そのためには朱子学のような理屈はいらない、と考えた。
 仁斎と徂徠では思想の性格は異なるが、画一的な考え方を嫌うという点では共通していて、画一性を助長するものとして、それぞれの立場から朱子学を批判していたと考えられる。

■第12章国学と洋学

・国学の成立
国学とは、江戸時代中期以降に発達した、日本の古典に関する新しい学問である。その一方で、日本人の生き方や日本社会の在り方について考える一種の精神運動としての性格も併せ持っていた。日本の古典学は中世までは公家社会に伝承されてきた秘伝であった。しかし、江戸時代になると秘伝を批判する風潮が高まり、『湖月抄』のような古典注釈書が出版されて、古典が身近になった。元禄時代になると、厳密で独創的な万葉集研究書である契沖の『万葉代匠記』が現われ、本居宣長に大きな影響を与えた。
 代表的な国学者として、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤が四大人と呼ばれる。賀茂真淵の学問の中心は万葉集であり、万葉集に現れた古代人の高貴で純粋な心を敬慕し、儒教の理屈っぽさを嫌悪し批判した。そして江戸幕府の制度が日本古来の伝統に合致するとして評価した。この点、画一的な儒教合理主義を批判した仁斎・徂徠の立場を徹底させたといえる。

・本居宣長の学問と思想
古典を実証的に研究する学問としての国学の方法を、契沖を引き継ぎ完成させたのが大著『古事記伝』を著した、本居宣長である。宣長の、平安時代の文学作品を研究する際の文学論の特色は「もののあわれ」で、文学とは人が感じたものを表現したものであり、道徳を基準にして作品を評価してはならない、と文学の自律性を明確にした。ただし、『源氏物語』のような写実的な作品にまで「もののあわれ」を見るのは無理がある。
 宣長の学問の中心は『古事記』研究で、それに基づき「神の道」を唱えた点が宣長の思想の特色である。江戸時代の現実については、神から天皇へ、天皇から将軍へ、将軍から大名へと、委任とか預かるという観念で政治的秩序を説明し、その預けられた民のために、大名やその家臣が「私心」なく政治を行うべきことを主張した。社会の混乱や人々の困窮は、為政者の責任であり、政治を行う者の「私心」を戒め、精神の面から社会を正しくしようとしたのが、宣長の「神の道」の教えであった。

・洋学の発展
洋学は西洋の学問のことであり、はじめは蘭学(オランダ)が中心であったが、幕末にはイギリス、フランス、ドイツなどから学ばれるようになり、これらをまとめて洋学と称した。
 元禄時代から自然科学的な学問が発達してくるが、まず医学に刺激を与えたのが蘭学である。十八世紀初め徳川吉宗が産業振興のためオランダ語の学習を奨励してからオランダ語の知識は少しづつ普及していた。その成果が、杉田玄白・前野良沢らによって翻訳され、1774年に出版された『解体新書』(オランダ語『ターヘル・アナトミア』)である。この大事業の経緯は杉田玄白の『蘭学事始』に詳しい。これ以降、蘭学は幕府、各藩でも奨励され発展していく。
 次に、漢方医学で必要とされる薬品原料を研究する本草学が発達し、十八世紀には薬用ばかりではなく、産業の資源としての動植物や鉱物にも関心が向けられた。この本草学は、のち物産学と呼ばれ、蘭学の知識も取り込みながら、明治以降の物産開発のための学問の基礎となった。

・学問の民間への普及
漢学を中心として、国学や洋学といった学問も江戸時代後半になると、寺子屋や藩校といった教育機関を通じて多くの人々に学ばれるようになった。その代表的事例が、福沢諭吉も学んだ、蘭学塾の適塾である。また農家の二男・三男が江戸・大坂に出て塾に学び、医者となって地方へ帰って開業したり、嘉永二年(1849)にオランダから天然痘対策の種痘が伝わると急速に日本各地にひろがったのも、教育を通じた学問の普及とみなせる。

■第13章明治維新における公論尊重の理念

・国家意識としての尊王攘夷
明治維新に至る政治運動の指導理念として注目すべきは、「尊王攘夷」ならびに「公論衆議の尊重」である。
 「尊王攘夷」という語が現われるのは十九世紀になってからである。それは、天皇を尊び、外国からの侵略を防ぎ、国家の独立を保つことであり、考え方としてはどこの国にもある国家意識の一つの表現である。
 「鎖国」も国家意識の一つの現われである。「鎖国」は1630年代、三代将軍徳川家光の寛永年間に完成されたが、当時「鎖国」をしたという意識が明確にあったわけではなく、「鎖国」という言葉もなかった。「鎖国」という言葉が使われるようになったのは、オランダ通詞志筑忠雄がケンペルの『日本誌』を部分訳し、その表題に『鎖国論』として享和元年(1801)に著してからである。幕府が鎖国の方針をとっていることを明示したのも寛政の改革の時である。この十八世紀末から十九世紀初めのころは、西洋の新しい勢力が東アジアに進出し、再び日本の独立がおびやかされてると意識されるようになった時期であった。

・尊王攘夷思想の形成
尊王攘夷思想として代表的なのが、十九世紀に入る頃から独特の主張を持つようになった水戸学である。その有名な著述の一つが会沢正志斎の『新論』(文政8年1825年)である。この『新論』はまず水戸藩主に提出され、その後写本のかたちで民間に広まり、社会的に大きな影響を与えた。その後、水戸藩藩校の弘道館が設立される際、その精神を示す『弘道館記』が藤田東湖によって天保9年(1838)に書かれ、そこに初めて「尊王攘夷」という言葉が現われた。

・公論と江戸幕府
嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航し、徳川幕府に開国を要求した。この時、老中阿部正弘は諸大名や旗本・御家人に意見を求めたが、当時これは当然のこととして受け取られた。阿部正弘が多くの人の意見を求めたのは、公論を尊重したからだが、これによって幕府の政策(日米和親条約、安政元年1854)は支持を得たことになり、中央政府としての幕府の立場を強化した。しかし、米国総領事ハリスの通商条約の要求の際、老中首座堀田正睦は朝廷の勅許を求めたが、勅許を得られないまま、大老井伊直弼により安政5年(1858)日米修好通商条約を締結され、尊王攘夷の世論によって幕府は攻撃にさらされた。井伊大老は安政の大獄(1858-59)によってこれに報い、これがさらに反発を呼び、桜田門外の変(1860)が起きた。これ以降、幕府は公武合体政策、公論衆議尊重へと転換した。

・公議政体論から議会政治へ
この後、公議政体の構想が各方面から唱えられた。幕府側の代表が大久保忠寛の「公議所」である。そのほかにもさまざまな公議政体論が現われた。15第将軍徳川慶喜の大政奉還(慶応3年1867)も公議政体論の考え方から出ている。
 明治新政府も、公論衆議の尊重という考え方は無視できず、むしろ公論衆議を尊重することによって、正当な新しい政府であることを一般の人々に知らせようとした。明治元年(1868)に京都で天皇が神に誓うという形で新政府の方針を天下に公示した『五箇条の誓文』の第一条は議会政治の構想であるといえる。この『五箇条の誓文』の第一条は、この後、自由民権運動が発展し、さらに議会政治が実現していく過程で、その主張の根拠とされた。明治22年(1889)、大日本帝国憲法が発布され、翌年には最初の国会が開かれたが、憲法や国会は西洋から入ってきた制度だから、はたしてうまくゆくのであろうかという心配が当時の有識者の間にあった。これに対し福沢諭吉は日本には地方自治の伝統があるから大丈夫だと説いた。このように、公論の理念は、明治維新から明治憲法の制定に至るまで様々な形で重要な役割を果たしていた。

■第14章近代日本における西洋化と伝統文化

・近代化と武士社会の伝統
東アジア諸国の中で、日本だけが西洋文化導入の面で非常にスピードが速かったのは、武士社会の伝統と関係がある。武家時代には実用性・能率性に主眼を置いた日本独特の政治組織が発達していた。そして、文学や哲学といった方面での教養がある文人であるよりも、むしろ実際的な技術者としての能力を持つことが武士にとっては重要であった。西洋の近代的科学文明を受け入れる際に有効な働きをしたのはこのような武家社会のあり方ではないかと考えられる。

・西洋的近代化と伝統との矛盾
西洋化としての近代化と日本の伝統には矛盾も発生した。
 所有権の問題に関して、江戸時代に土地に対する権利の観念はあったが、西欧風の所有権すなわち絶対的な所有権というものは、日本の伝統的な観念にはなかった。明治5年に地券を交付したが、地主と小作人がいた場合、地主に交付された。これにより土地に対する所有権が特定の個人のものになったが、それまでは、地主・小作関係があっても、地主の権利が絶対であると考えられてはなかったが、それが一方的な支配関係に変わり、現代の土地問題の淵源ともなっている。
 また、民法典編纂における、戸主権問題もある。ヨーロッパは家の主人が家族や奉公人に絶対的な権力をもつ家父長制度であったが、日本の家制度では、一家の主人は家を代表してはいたが、同時に家というのは一種の共同組織であって、一方的な支配服従関係ではなく、主人の権力も絶対的に強いというものではなかった。それが明治民法によって西洋風の強大な戸主権となった。日本の近代文学では自我に目覚めた個人が家との葛藤に苦悶しそこからの解放に努力する姿が描かれているが、これは日本の伝統的な家そものの性格というより、むしろ明治以降の近代化された家制度がもつマイナスの側面が作用している。

・国家神道とその影響
明治元年の神仏分離令は、廃仏毀釈を引き起こし、日本の伝統的な宗教のあり方を根本的に破壊した。そして、これ以降、神社は国家の管理下におかれ、第二次大戦後アメリカ軍によって国家神道として断罪され、神社の国家管理は廃止された。明治において、様々な新宗教、新興宗教が起こったのは、国家に奪われた本来の神信仰を求める心に基づいたものと考えられる。

・近代哲学と伝統思想
明治以降、哲学や思想の面で、欧米の哲学・思想を学ぶことが主流となり、独創的なものは生まれにくかった。明治の終り頃から現われてきたのが、西田幾多郎(1870-1945)と和辻哲郎(1889-1960)である。西田は禅の考え方を、近代哲学としての西洋哲学の概念によって表現しようとしたところに特色があり、道元の思想と一致する面がある。また、和辻は、倫理学でいう人間とは個人のことではなく、人と人の間、「間柄」における存在であるとし、社会的な人間関係に即して道徳の問題を考えようとしたが、これは伊藤仁斎や荻生徂徠の思想と似ている。西田は、伝統的な日本の思想の上で、天台本覚論から鎌倉仏教への流れにつながり、和辻は、仁斎、徂徠から本居宣長らへの系譜につながる。ともに共通するのは、抽象的な意味での個人を基本とするよりも、社会の中で行動する具体的な個人を基本として、人生の諸問題を考えようとしている点である。そこには日本的な個の意識としての、人間関係を大事にし、その中で与えられた役割を忠実に果たしてゆくことが、自己を活かすことになるという考え方がある。

・歴史と現代
日本人は「お上」に弱いとか、権威に従順である、いわれることがあるが、日本の社会や生活文化を通観してわかることは、むしろ逆に、権威に必ずしも従順ではなかったのが、日本人の歴史の特色だということである。もともと共同体的な性格を持つ国家において、公権力は一部の人々によって独占されるべき性質のものではなく、その独占に近い状況が生ずると、必ず反撥が生じ、社会組織が変動する。それが日本の歴史でなのである。
 これを変化させたのは、明治維新以後の西洋化であった。協同組織であった「家」が、法制上は家父長的な性格のものに変化し、天皇の君主としての性格も、西欧の皇帝に近いものとなった。
 現代の日本人が、もし「お上」に弱いとすれば、それは明治以降の戦争の時代と政治のあり方に由来するもので、日本の伝統とは別の問題である。今後は「西洋化」の弊害を正視し、西洋化以前の伝統に基づいて、新しい日本のあり方を構想する必要がある。

※本書全体へのブログ主のコメントは下記をご参照ください。

尾藤正英『日本文化の歴史』岩波書店2000年(参照、追記)

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