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2016年12月12日 (月)

英作文教育は無駄である

私はまともに操れる外国語は一つとしてない。だから、生粋の日本語話者として考えてみる。

非日本語話者が、訓練さえ積めば、例えば下記のような日本語の章句をいつか書けるようになるだろうか。

「・・、叉かういう打てば冴えた音を發しさうに思へる程緊密に言葉を配置した文章を書くものが、その為にどんな苦労をするかは察せられるが、その苦労をすることが出來るものにとっては文学はさうした作品以外のどのようなものでもない筈である。」
吉田健一著作集、第16巻所収「作者の肖像」p.177、1980集英社

また、 日本語話者が一生懸命、英語を学習すれば(努力さえすれば)、このRussellのような情熱的で強烈な皮肉を、中学生英語レベルの比較級で容易に表現できるようになるものなのだろうか。

The fact that Britain has produced Shakespeare and Milton, Locke and Hume, and all the other men who have adorned literature and the arts, does not make us superior to the Chinese. What makes us superior is Newton and Robert Boyle and their scientific successors. They make us superior by giving us greater proficiency in the art of killing. It is easier for an Englishman to kill a Chinaman than for a Chinaman to kill an Englishman.
 THE PROBLEM OF CHINA by BERTRAND RUSSELL, 1922,CHAPTER III

これは結局、不可能なことなのだと思う。日本人自身が書いた英文の著作として著名なのは、今でも100年前に書かれた岡倉天心の"The book of Tea"だ。カズオ・イシグロは既に英文学史のどこかには記載される英語作家だろうが、彼は殆ど英語話者だ。

だから、日本人が英文で English Speaker たちに感銘を与えるような English を(努力さえすればいつか)書けるようになるかもしれない、というのは妄想だろう。日本語話者のどれほどの英語遣い(仮にT大英文科教員)でも、英文で書くときは Native English Speaker に最終チェックを依頼することは当然のことなのである。

日本における英語教育で、英作文の練習は子供たちにかなり負担になっていると思う。これは、日本語と英語の文の構造や発想が全く異なるのでやむを得ないことだ。

また、例えば、中学生で習う「受動態」がなかなか理解できない、受動態で書かれた英語例文をなかなか日本語にできない子供たちが結構いる。これは《英語力》が弱いのではなく、《日本語力》が弱いせいであることがほとんどだ。何故ならそういう子供たちは、例外なく肯定文の日本文を、受け身の日本文にできないから。

従って、現文科省の頭の悪い役人たちが、本当に日本や日本人の対外的情報発信力を強化すべきだと考えているなら、小学生から英語をやらせる※1のではなく、子供たちの日本語力を強化する施策を考えるべきだろう。また、諸外国の少年少女たちに、日本ファン、日本人ファン、そして日本語ファンを増やして、諸国語の話者たちの中に、一人でも達者な日本語遣いを増やし、彼らが日本語の著作を嬉々として自国語に翻訳※2してくれるように支援すべきだろう

※1敗戦後、日本が負けたのは米穀を食べて頭が悪くなったからだ、もっとパン(小麦)を食べて頭をよくしよう、というキャンペーンがはられた。これはGHQを通じた米国小麦輸出ロビーの差し金だった。また、著名な知識人の中に、日本語廃止論を唱え、英語や仏語を共通語にすべきだという「真剣な」議論が出たりもした。前者の官僚たちや後者の知識人なぞは、昭和20年以前なら、「売国奴」と罵られて当然の連中だ。中国人が最も忌み嫌う罵詈雑言をご存じだろうか。「走狗 zougou 」である。21世紀の現代、さしずめ、文科省の役人たちは、日本人児童の頭の中身を他国の植民地とする米英の「走狗」であり、正しい意味での「植民地官僚」と言って過言ではない。

※2ある著名な外国人の学者は、彼を訪れた日本人学者に訝しそうにこう尋ねたという。「私が新しい著作を出版すると、たいてい複数の日本人から翻訳許可を求めるレターが来る。これはいったいどういうことなのか」、と。

諸外国の日本ファンは、美しく繊細な優れた日本語を読むことで感銘を受けるのであって、日本人の書いた、(どんなに日本人的に巧くとも)普通の凡庸な英文などが、彼らの琴線に触れることはないのだから。

大学入試や高校入試に英作文を課することは、長い眼でみると、いろいろな方面に気が遠くなるような無駄な資源配分を強いているのではなかろうか。これまでの日本の読解中心の英語教育は失敗しているわけでは決してない。戦前期の日本だって、貿易で食べていたし、膨大な英語文献を日本に導入していた。戦後日本だって、貿易大国だ。英語で書かねばならない人々は(英語読解力を積み上げているなら)個々にその工夫をするだろう。

言葉なら、日本語だろうが、英語だろうが、《読め》ないのに、《書け》るはずがないし、そもそも母国語が未熟なのに、外国語ができる道理がない。

※ちなみに、弊ブログ記事はすべて日本語で書かれている。それでも、時折、外国語話者が閲覧に来られているようで、最近も弊ブログ記事の一つがネット上の翻訳機能で、ロシア語に変換されて読まれていた。日本語で語るより、英語で語る方が対外的情報発信力が高い、と仮にしても、それを日本語話者がすることはどだい無理なことなのだから、せいぜい母国語で全人類に裨益する(かも知れない)ことを情報発信するしかないのではないか。他者を揺り動かす日本語は日本人にしか結局書けないし、多くの同胞にこの感動を分かち合いたいと思わせるような英文は、英語話者でしか書けないのだから。

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