ヒトはモノとコミュニケートできるか? 20180609註記
電子レンジは、出来上がると「チン!」と知らせくれる。洗濯機も洗い終わるとブザーで教えてくれる。乗用車のナビは運転者に「明けましておめでとうございます」とか言ったりする。まるで機械が話しかけてくれているかのように感じる。これはモノとのコミュニケーションなのだろうか。
これらは一応コミュニケーションの一つだと言えるだろう。ただし、正確に言えばこれはモノとのコミュニケーションではない。モノを製作しそこにプログラムを組み込んだヒトとのコミュニケーションとしか言いようがない。
読書はモノとのコミュニケーションだが、それが本の著者※とのコミュニケーションであることは見やすいところだ。本はメディア(媒介者)に過ぎない。
※20180609註記
「本の著者」と書いたが、厳密に言えば、「その本の著者」と言うべきだろう。なぜなら、著者が当該の書を公表後、意見を変更しているかも知れないからだ。またこうも言えるか。creator とその creature の関係は、 creature が creator の手を離れた瞬間から、異なる object として別の歴史性を負わざるを得ないからだ(まるで親と子の関係のようで身につまされる)。
歩道と車道の境界にガードレールがあるなら、それは乗用車の侵入から歩行者を保護する役目を果たすと同時に、歩行者に車道へ出るな、というメッセージでもある。ドアのノブが丸いのは、ヒトに握りやすくするためだが、同時に握り易くしていることがヒトに「ここを握って引いてくれ」というメッセージでもあるだろう。古刹の庭園に飛び石があるなら、そこを歩けというメッセージであるわけだ。
人工物(artifact)なら理解しやすいが、自然物(natural object)ならどうだろう。動物が岩の隙間や洞穴を住処としたり、ヤドカリが時折、人工物の破片を巧妙に使ったりすることがあるが、これはモノから動物へのコミュニケーションであるよりは、動物からモノへの使用価値の投影(projection)と考えるべきだろう。
以上の議論は、J.J.ギブソンのアフォーダンス理論
とごく近接する。アフォーダンス理論が、インダストリアル・デザインやコンピュータ等のユーザー・インター・フェイスの分野で議論されることが多いのも、それが一種のコミュニケーション理論だからと考えれば、得心がいく。
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